読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ポジ熊の人生記

雑記ブログの育て方をメインコンテンツに、時事オピニオンや書評などを日々更新中です。

高畑淳子への容赦ない謝罪会見は日本の世間構造である

社会


スポンサーリンク

高畑淳子

高畑淳子、謝罪会見でも「親バカ」 「こういうときもかばおうとしてしまう」 : J-CASTニュース

高畑裕太さんの事件で母親の高畑淳子さんが謝罪会見を開いたのが記憶に新しいです。リアルタイムで見ていましたが、「成人した子供の犯罪について、どうして親が謝罪会見を開くの?」という疑問を抱いた方、いませんか?

 

佐藤直樹氏著『犯罪の世間学』を参考に、アメリカのケースと対比して日本の世間構造を学びましょう。

日本では「個人」は存在しない

世間で生きづらく自分探しに疲れた人は4つのルールを知ろう

こちらでも少し触れているのですが、日本では個人が存在しません。あるのは「世間」という、日本人が集まった場所に発生する力です。それがこの国を支配している。

 

極端な理論かもしれませんが、ここしばらく「自分探し」というものについて考えてみたところ、この「世間」というソリッドな現実に突き当たってしまいました。ですので、今は世間を否定する気持ちはかなり収まりました。

 

一時期は「この世界は狂っている!」なんて一人で憤怒してたものですが、今はあきらめを通り越して受容の段階に来ています。あえて諦念とは表現しませんよ、少しばかり抵抗したい気持ちもありますので(笑)

 

明治以降、西欧的自我を無理やり輸入しようとして失敗したのが日本であるといいます。キリスト教の国は一神教であり、大昔の「告解」を皮切りにして個人というものを長い年月をかけて獲得していったのだそうです。人が人として独立した存在になるには、歴史的に見ても一朝一夕には成し得ぬこと、ということ。日本で個が芽生えるには、まだまだ歳月を重ねねばならない。今、どうあがいても世間という共同体の中では抗うすべが皆無ともいえるのです。

 

畢竟、この国では現時点で「自分探し」をすると、ほとんどの人は徒労に終わってしまうでしょう。なぜならば「世間」の中で絶対的に存在する身分制や呪術性により、法律を超えてそれらがガチガチに人々を縛っているからです。自分という存在を際立たせるためには、世間の承認欲求を必要としますし、誰かと比較して目立つしか今のところは方法がないのです。

 

アメリカで子供が犯罪を犯した場合

1998年、アメリカのニュージャージ州で発生した銃乱射事件。犯人の親の元には、事件後に全米から手紙や電話が殺到したそうです。手紙は段ボール2箱分に及ぶものでした。その中には、どのような声が詰まっていたかご存知ですか?

 

加害少年の家族を激励するものがほとんどを占めたそうです。

 

日本人としては、信じられませんよね。多くの報道陣の前に母親を立たせ、矢継ぎ早にえぐるような質問を投げかける謝罪会見を、公共の電波で流す国では理解できない事実でしょう。

 

先述の手紙の内容の一部が『犯罪の世間学』で紹介されています、内容は以下のようなもの。

 

「いまあなたの息子さんは一番大切なときなのだから、頻繁に面会に行ってあげてね」「その子のケアに気を取られすぎて、つらい思いをしている兄弟への目配りが手薄にならないように」「日曜の教会に集まって、村中であなたたち家族の為に祈ってます」

ー『犯罪の心理学』130-131pより

 

これはいち事件の具体例を挙げたにすぎません。中には呪詛の類の手紙も届いたことでしょう。ですが、こんなことは日本では考えられないでしょう。「子供が犯した犯罪は、親にも責任がある!追い詰めろ!糾弾しろ!」これが世間の総意なのです。西洋から見れば、本当に不思議な国なのですよね。

 

西洋では、子供が犯罪を犯したのなら、家族は子供の応援をします。対幻想としての意識を強く持っていて、ここが「個人」の確立する本当の意味の社会構造です。家族の中には外からの干渉は影響しないのです。しかし、日本はその逆なんですね。家族の中に対しても、外から多大な干渉を受け、その境界線が曖昧になってしまう。何かと「ヨソ」と「ウチ」を比べてしまう根性がこれを物語ってます。絶対的な幸福感など、得られようもないのです。

 

謝罪会見は何だったのか

日本では犯罪行為について「赦し」と「穢れ」の要素をもっているといいます。

 

「赦し」は犯人が反省している場合は量刑が軽くなったり、その後の身の振り方次第で大目に見てもらえたりすること。

 

「穢れ」は犯罪を犯した者を世間の埒外に放り出し、家族ともども駆逐してしまうこと。

 

ではあの謝罪会見はなんだったのでしょう。いうまでもなく「穢れの追放」です。犯罪を犯した忌むべき犯人の母親ともども、世間から抹消しようとする排他的システムが作動した。だからあんなに執拗に追い詰めるような会見を開かせたのです。

 

さらにあれはイニシエーションの一種でもあったようです。これが世間を構成する要因の一つ、呪術性ですね。犯罪者を「穢れている」とみなす呪術性。悪いことをしたものには徹底的な糾弾をする。これ、ネットでも良くある光景でしょう。

 

世界的に、死刑制度が根強く残っている国として日本は有名です。あれも特有の呪術性を示しているのだそうですよ。さらに、身分制の最たるものが「天皇制」であると『犯罪の世間学』では断言しています。

世界的に見ても犯罪発生率が低い傾向にあり、殺人事件も減少傾向にある。にもかかわらず近年、法的に犯罪が厳罰化しているのは「世間」の圧力が再び増してきたことに起因するのだそうです。

このような背景について書籍では詳しく解説していますので、興味のある方は是非とも購入を。書籍タイトルでは想像もできないくらい「世間」について良く学べる内容ですから。

 

スポンサーリンク

 

おわりに

僕はあの謝罪会見を悪だ正義だと断じるつもりはありません。リアルタイムで見ていた感想は「胸糞悪い」ですが、同時にこれが日本を支配する「世間」のシステムによるものなのだろうという、諦めに近い感情もあったのです。

 

「世間様の迷惑になるから」と子供を躾ける親は後を絶ちません。子供からしてみれば「私より世間のほうが大事なの?」と悲しい気持ちになるのでしょうが、いかんせんこの国で生きていく我が子のことを考えると「世間様に迷惑をかけないように生きていくこと」を前提として躾けてしまうことは仕方のないことなのかもしれません。

 

この「仕方ない」も、日本人特有の感情らしいですよ(笑)共同体の秩序を守るためには、個人が主張することは許されず、迎合することを前提とした生き方にならざるを得ない。だから、どうも腑に落ちない場面をTVで目の当たりにしたとしても「仕方ないね」となってしまうのでしょう。 

 

ですが、近年ではちょっと変化の兆しを見せていると思うのですよね。インターネットの普及によって個人が意思を発信できる土壌が形成されるとともに、「個人」としておかしいことにはおかしい、と言える力場が形成されつつあるように思うのです。

その力は微弱ですし、意思発信といっても匿名である場合が多く、まだまだ草分けの段階であることは否めない。ですが、個人を主体とするアドラー心理学の流行など、明治以降一向に進まなかった「西洋近代的自我」の萌芽が、日本でも少しづつ芽吹いてきたのではないかと、そこはかとなく感じるのです。

 

有体に申すと、世間に迎合したほうが楽に生きることができます。周りに歩調を合わせ、顔色を伺いながらベストな一手を繰り出していけばいいのですから。これで人生安泰なんですよね、この国。

ですけど、僕の中では完全に諦めきれない微弱な炎がゆらめくことがあります。件の謝罪会見にしてもそうですし、時に不条理なほどの同調圧力にしてもそうです。合理性を欠いた「村」的外圧に疑問を抱かないかといえば、やっぱり抱いてしまう。

これは無駄な抵抗なのか、それともこの国で芽生え始めた本当の意味の「自我」の走り出しの一端なのか。とても興味があります。

 

とりあえず、この「反逆の火種」は心のどこかに置いておこうと思います。世間に無駄に逆らって生き辛くなるような火にしないように、ぶすぶすと燻ぶらせるのです。ですが、鎮火はさせません。いつかくるかもしれない「個人」、そして「社会」の成立の瞬間に、それを解放しようと思います。

 

以上!