ポジ熊の人生記

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自分の正しいを捨てて決断する勇気を持ち生きやすく

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ポジ熊です。

若い頃は自分の考えや行動が「正しい」と思い込んでました。

でも、どうもその「正しさ」は自分だけでは証明できないようです。

「自分の考えが正しい」の生成物

誰かの行動が誤って見える

自分の中に「正解」があるものだから、それに反するものは誤りになる。

誤りと考えるものは、容認できないものです。

「こんな考えもあるのか」という柔軟な思考を阻害し、「それは間違っている」という頑固なスタンスを助長する。

誰かの指摘を受け取れなくなる

こうなると、誰かの指摘も素直に受けることはできなくなります。

そうですよね、自分の中に正解があるのだから、それを修正しない限り「誤り」と判断する指摘は自然と受付けなくなる。

仕事で考えてみれば、諸先輩方のが先に会社に入って色々知ってんだから、教えてもらったほうが覚えが早い。にも関わらず、他者の指摘を受け付けない思考になっていてそれを素直に聞けないもんだから仕事の覚えが遅い。

総じて

ナルシスティックで独善的、自己中心的で協調性のないパーソナリティを「自分の考えは正しい」は作り出すように思えます。

社会ではとても生きにくくなる。こと日本の社会においては、「自分が正しい」のスタンスで生きることは流れるプールの流れに逆らって泳ぐことに等しいくらい生きにくさを生み出します。

もし、「自分が正しい」を押し通してもこの社会で成果を上げたり一定の地位まで登りつける人はそもそも地頭が良いだとか他者にはない特殊なスキルが備わっているなど競争力が基本的に高い人なのかもしれません。あとは、自分の意見を押し通して誰かをゴリっと潰しても、潰れた際の苦悶の表情を、見て見なかったフリをできる強靭なメンタルかあるいはそもそも見えない鈍感力が必要です。

 

人は決断しながら生きていく

自分を信じること

少し話はそれますが。

 

「自分の考えが正しい」を捨てて生きるとしても、人は決断を繰り返しながら生きるものですから、ではその決断をどうやってするのか?という疑問が沸きます。自分が正しいとは解らない、じゃあ自分の決断も正しいとは言えないのでは。こう考えるのは必然です。

僕は、自分の決断はやっぱり「正しい」とは思えません。決断をしても、もしかするとそれは誤っているのかもしれない。解らないんです。でも、決断は生きる上で必要だ。

ならば信じるしかないでしょうね。自分の決断を信じる。正解か誤りかは解らないけど、自分を信じてこの道を選ぶんだ、と。当然、その後に誰かからの指摘で誤りに気付くこともあるでしょうし、自分の身体もしくは心で実際に痛い目を見るかもしれません。

でも、それは自分の決断を信じて行動を起こした結果ですので、仕方ない。決断のあとに待っているのは、答え合わせです。それが正しいか誤っていたか、なんていうのは決断する時にわかるものじゃなくって、時間差であとからわかるものなんですね。

 

決断できない人の迷い

決断をしない人はたくさんいますね。内容の大小は様々です。

あらかじめ、知りたいのです。自分の決断が正しいか誤っているかを、あらかじめ知りたい。もし、正しいならば胸をなでおろして行動する。誤っているのなら、それはしないに越したことはない。

先ほど申したように正解は自分でわからないものです。だから、こういった人たちは、「わからないものを求めてしまう」という出口のない迷路にいる。

こういう人の迷いというのはおそらく、「自分への信頼感欠乏及び勇気の欠乏」からくるのでしょう。

決断には勇気が必要です。なぜなら、自分でそれを正解か誤りか判断できないから。極端な例えをするならば、着地点の見えないバンジージャンプのようなもの。これはちょっと内容の大きい決断ですね。小さいものでも、何が入っているかわからない箱に手を突っ込むようなものでしょう。

もし、自分が決断できずに悩んでいるのなら、まずは勇気を持つことが解決の第一歩です。そもそも、決断には勇気がいるんだ、ということ。それができない、ということは勇気がないのだ、ということ。これを自覚できれば、ではなぜ自分に勇気が持てないのだろうか、という考えが起きるはず。

 

生きやすく

本題に戻りましょう。

僕は「自分が正しい」を捨てて生きやすくなりました。

怒ることがほとんどなくなった

誰かの言動で答え合わせをしなくなったからです。今までは自分の中の正解に照らし合わせて、それが正しいだとか誤っている、というのを繰り返していました。正しければ肯定、誤っていれば否定です。そりゃ、怒りも沸いてくるというもの。こういうのを捨てたのです(完全に、とはまだいきませんが)。

人の意見をそれなりに聞けるようになった

前までは、自分が正しいと思っているもの「だけ」を積極的に取り入れていました。なので、それ以外の指摘は聞かないか、例え耳に入ったとしても頭の中には落とし込めなかった。

不思議なんですけど、正解を捨てると、誰かが言ったことを覚えていられるようになります。仕事をしていてもそうですね、何かお願い事をされると、それが頭の中にずっと残ってて取りこぼしがほとんどなくなる。これはきっと、相手の言っていることを聞いている証左でしょうな。

多分、聞かない人はフィルターがかかっちゃってる。誰かが何かを言っても、正誤フィルターでそれを濾すものだから、素通りしちゃう割合がいくらかあって。それで仕事も中途半端になったりするんだろう。

生きやすいから皆にも実践してほしい

この記事を書く動機は、「こんなにも生きやすくなるから、ここ見てる人もやってみて!」なんですよ。自分が良いと思ったものは人に勧めたくなる。

一朝一夕にとは、いかないかもしれません。僕も、辛い目にあって2年間くらい禅寄りの生活を送り続けた結果の今ですから。

でも、世界が変わるんですよ。とにかく、怒りを捨てること。これが大きい。本当に楽になれる。他者や物事への評点を止めましょう。

 

喜びの希釈?

「自分が正しい」を捨てて中立的な思考を繰り返すと、怒りや哀しみを捨てるかわりに喜びまで薄くなってしまうのでは、という懸念もあります。事実、穏やかな生活には刺激が少ないです。心躍るような上がり坂は、ほとんどなくなる。

コインの裏表みたいなもんで、怒りや哀しみの裏には喜びや楽しみがあって、平穏な道を選んだ結果はそういう心になるのかもわかりません。

でも、ですよ。最初のうちは寂寞感もあるかもしれません。慣れるまでは大変かも。けど、そのうちです。怒りや哀しみを捨てつつも、日々の何気ないことに幸せを感じる受容体が育っていって、刺激は不要という思考にシフトしていくはず。

 

境地に至るためには、健康に真っすぐに生きて、悪い環境や人や物を遠ざけて、他者の幸せを祈る。これが肝要なのかな、とも思います。

 

今回は思考の文章化ということでチャレンジしてみましたが、抽象的で難しいですね。それに、高説を垂れたようですけど僕もこの社会ではまだまだ刺激を求めて生きている、というのが事実ですし(こうやってブログを書いて承認を求めている、という時点でね)、訳ありなこともしてます(してました)し、清廉潔白な身じゃないですから。

 

なので、自分の中の理想として。

「こうありたい」という願いも込めて。

キーボードを思いのままに走らせてみた次第です。

 

穏やかに、今日も穏やかに。