ポジ熊の人生記

雑記ブログの育て方をメインコンテンツに、時事オピニオンや書評などを日々更新中です。

「自分は正しい」を捨てると抜群に生きやすくなるのに

歩いててふと感じたことを文章にしてみます。

「自分は正しい」

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例えばの話。

車で2車線の道路を運転していて前方に右折車がおり、ウィンカーは出しているけど中央車線に寄れていなかったとします。

これを見て「このへたくそ!」と感じるかそれとも「仕方ない」と考えるか。

前者は「自分は正しい」を相手の運転に当てはめて怒っているのですね。後者は「運転なんて人それぞれ」と考えて不満をためない思考です。

交通規則は遵守すべきものであり、社会のルールなので逸脱を是とするわけではありません。引き合いに出す例が良くなかったとも思います。でも、あなたはそれに対して怒ったところでそのドライバーが以後中央車線に寄って右折するようになるわけではありませんし、車社会が正しい方向へ進むわけでもない。

つまり怒り損です。怒ってただただ血圧を上げて不満をためて心を狭くしていく。不満をためたいと考えている人はいないでしょ?じゃあ怒らなければ良いのです。

つまり「自分の正しさ」というものを捨てる。これが肝心じゃないかなと。

自分がその時にアクションを起こせば誰かに影響を及ぼすタイミングがあるとすれば、それは啓蒙として良いでしょう。例えば自分の子供が免許を取得した際に運転についてアドバイスという形で伝える。これで素直に聞いてくれれば以後は子供はしっかりと運転を(指摘したことについては少なくとも)してくれるようになる(かもしれない)。

もう少し影響の輪が広がる例として、公安で自動車免許の試験官であったとすれば、受験者に凛とした態度で警句を鳴らすことで路上に出るマナーの悪い運転手を減らせるかもしれない。

このような立場(や場面)に出くわした時にあなたが起こすアクションは決して損ではありません。社会の規範を保つ一石を投じる尊い行動です。しかし、先述の怒り事例。やっぱりこれは損です。その怒りを車社会を正すための現実的な行動に繋がれば別ですよ。それをブログに書いて反響を起こすことで世の中に警笛を鳴らせるかもしれない。これは一例ですね。でもその場でただ怒ってるのはやっぱり「己の正しさに反する者は排除する」という稚拙な感情の表出でしかないのです。

車の運転から離れます。

この「自分が正しい」というのは非常に厄介なもので、対人関係において大変にパフォーマンスを下げる要因となります。具体例は挙げるとキリがないので割愛しますが、とにかく相手の言うこと全てに正否をつけてしまう。評価者になってしまうのですね。こうなれば人間関係は途端に綻び始めます。

敏感な人が世の中にはとても少ないと思う反面、無意識というのはまさに宇宙であるなと痛感することのひとつは、このように自分に対して評価を下そうとする「正しい者たち」のオーラには鈍感者はとても敏感になるということですね。敏感な人で自省を繰り返す人はこのような場面に出くわしてもそれを言葉にして考えることができる。しかし、そうじゃない人たちは言葉にはできない。無意識のうちに感じてしまうのです、「こいつは俺を嫌っている」ということを。だから、当たりもキツくなる。当然です、魚心あれば水心でしょ?そんなもんなんですよね、人間。

困ったことに「正しい者たち」はこのことを自覚していない。「どうも私には人の当たりがキツいように感じる」このようにモヤっとした感情を抱いて生きていることが多い。これが生き辛さの正体です。自分は相手を評価するものだから、それを察知されて嫌われて当然っちゃあ当然なんですよ。でも、それがわかっていない。わかっていれば手の打ちようはある、つまり「自分は正しい」を捨てれば良いのです。

人間に対する定規なんて捨ててしまえば良い。管理職になって人事評定をやるのなら、それは仕事と割り切って数字で算盤を弾くとよろしい。でも、人間対人間となればそこに評価などはいらないのです。これを解っていない人がこの社会には驚くほど多い。みな無意識のうちに自分の正しさを振りかざしては、それで人生の進捗が澱んだ際に謎のフラストレーションとして心に蓄積させていく。傍から見ていて「捨てちゃえばいいのに」って何度感じたか数知れず。

後輩にも箴言させていただいたことは幾度かあります。「自分の正しさなんて捨てたほうが良い。他人に点数を付けられるほど人間は偉くないんだ」と。理屈ではわかっていてもこれができないようです。特に若い頃はこれが顕著ですね。どうしても我を押し通したい。愚痴を聞いても要約すると結局は「俺はこんなに正しいことをしているのに、どうして周りは理解してくれないのか?」ということに行きついてしまう。それでこう問います、「で、君は『自分がやりやすいようにやらせてくれ』って言いたいのか?」と。すると閉口します。あれ、おかしなこと言っただろうか。そういうことなんじゃないの?異論があるなら述べればよろしい。でも、何も言い返せないということは図星なんでしょうよ。

会社はねぇ、自分のわがままを聞いてもらえる場所じゃないんだよね。それぞれが独立した大人なの。みんな自分の意見は持っているけど、折り合いをつけて総合スコアを上げるために自分の好きなことは言わないのよ。ここは家じゃない。自分のやりたいようにやらせてくれってのは、我がままだよ。「自分が正しい」なんてのは結局のところ、捨てきれない幼児期の残滓なんじゃねえのかい?

と、まあ、以上のことをそのまんま伝えさせてもらいましたけど相も変わらず今日も今日とて他人の採点は続くわけですね。これを見て「仕方ない」と思える自分も歳を食ったのかなとシミジミ自覚するのですが・・・。

どうしたら捨てられる?

まぁ僕も「自分が正しい」を完全に捨てきれたわけじゃないですし、若い頃はそれはもう評価の鬼でしたね。あいつは正しい、あれは間違っている、こんなのはありえない、こんな日々。けど、やっぱ疲れてましたね。抑揚はあったかもしれないけど、残念に思う気持ちへの振れ幅が大きすぎて嬉しさの山を覆い隠してしまうのです。トータルで赤字のメンタルで。

色々と思考錯誤しましたけどね、人間関係。どーーーーーにか生きやすくならねえかなこれ、辛すぎだろ。なんて感じながら翌日はこうしてみよう、翌日はここのニュアンスを変えてみようとかファミレスのオリジナルメニュー作る店長さんかよと突っ込まれそうな具合で人間関係を暗中模索。幸いなことに実行することでのフィードバックは嫌ってほど得られました。職場でやってみりゃ良いんだもの。それでボロクソになって「あれ、これはおかしい」とか反省してまた新たなメニューを繰り出してみるんです。

で・・・結局のところ「これ」といったソリューションはないですね。今回の主題である「自分は正しい」を捨てる、についても漠然としてるし即効性がなさそうでしょ?若い奴にこれを言っても「だって、腹が立っちゃうんだもの、しょうがないじゃないですか!」と居直りに近い態度を示す。うーん、そうかぁ。脱却は難しいか。

亀の甲より年の劫、ってやつですかね。人間関係にもまれに揉まれるあるいは致命的な挫折から立ち上がる。そういう荒療治的なイベントをこなさないと人間というのは正しさの呪縛から解き放たれないのかもしれません。そうだよね、40越えても特大の定規を振り回す永遠の少年が闊歩している世の中ですもの、20代そこらに「正しさを捨てろ」なんて無茶な教えだったかもしれない。

けど、生きやすいよ。ほんと。すっごい楽になる。人に点数つけるの、やめよ?

完璧な評価者は足元がおろそかになる

他人の間違いに厳しい人の特徴として共通しているのが「自分の間違いに気が付かない」です。とにかく厳しい人ほど薄氷の上で怒号を飛ばしていることが多い。これが周囲の強烈な反感を買う要因だと考えます。他人に完璧を求める人は完璧でなければならないのです。しかし、人間に完璧などありえない。必然的に矛盾が生じるのです。こうなると説得力は無に等しくなってその場では怒りの感情を潜り抜けるためにへーへーしつつも陰では「あいつはやばい」とささやかれて嫌われるのです。

困ったことにこの完璧な評価者は自分がミスを犯した時に強烈な自責の念に駆られることは少なくて「あ、おう」みたいな感じでスルーしてしまうことが多い。自分の明らかなミスで周囲も見ているにも関わらずスルーしてしまうんですよ?これは目の当たりにした際には一瞬自分の目を疑う光景になるのですが。どうもこれ、認知の歪みを回避するために見て見ぬふりを無意識にしてるんじゃないかと思うのです。自分の間違いに気づいたとき、神は絶対者たりえない。神に間違いなどあってはいけないのです。永遠に他者を裁く存在なわけですから。自分の間違いを認めると普段の振る舞いもすべて否定されてしまう。だから「見ても見なかったことにする」という作用が働いてしまうのではありませんか。自分の存在を護るための自衛的精神作用がそこで働く、と。

だからあれです、他者にはそれなりに寛容であるべきかと。間違いを指摘するのは結構ですし、指摘すべき間違いは堂々と述べるべきかとは思いますけどね。心の中に「人間だから誰にでもミスはあるよね」っていう器を用意してほしいのです。こうすることで、自分のミスにも気づけますから。「ああ、自分もやってるわ」って思えないと、矛盾が生じてしまうんですよ。

 

おわりに

話が脱線しかけたので、このへんで離脱します。気づいたら4,000文字近くになっていますね。心を文章にするのは気持ちが良いものです。

賛否両論あるとは思いますけど、やっぱり評価は捨てたほうが良いんじゃないかなーと。でも、これ自体が「自分の正しさ」であって、後輩が評価者になって外側の事象に振り回されていようともそれを「悪い」と裁定すると同じ穴の狢ってことになっちゃうんでしょうねぇ。心ってのはグルグル回りますな。

ちなみに人間関係で試行錯誤を繰り返したり挫折したりを経て今の心境に至った(道半ばですけど)わけですが、書籍からも大いにヒントを得ているので一冊を紹介して締めます。

お馴染みですね。

変えられぬものと、変えられるものの見分け方。

 

このほか、色んな本を見ました。心理学、仏教、禅の教え。

もう全部融合してカオスな状態になってますけどね(笑)

だから強いて挙げるならの一冊で嫌われる勇気なんです。

後輩の別れに手渡している本でもあります。

本を読むだけでは駄目、あとは実践あるのみ。