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ポジ熊の人生記

雑記ブログの育て方をメインコンテンツに、時事オピニオンや書評などを日々更新中です。

自己責任論で貧困者や仕事のできない人を差別する狂った世界

社会 社会-オピニオン


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2016年12月1日 更新

差別だらけの世の中です・・・

どうもどうも、おそらく中の上くらいのポジションにいるポジ熊です。

世間には差別が満ち満ちています、そう感じる理由、それは僕が被差別者だからじゃなくて周りが差別者だらけだから。そして僕もきっと差別者・・・(´・ω・`)

今回は僕が感じた「貧困者への差別」と「仕事ができない人への差別」を書きます。

貧困者への差別

 

やれあいつは生活保護だの、やれあいつは底辺のどうしようもない困窮者だの。まるで救いようもない、同じ人間とはとても思えないような視線を彼らに送る周囲の人間を日々、目の当たりにします。

 

お金のない人たちは物質はもとより知識や教養を伴わないことが多く、ゴミにうずもれて暮らす人も少なくありません。そんな方々と接するにあたり、ファーストインプレッションが「ろくでもない」という風になる。

 

これを自己責任としてまるで生まれ持った罪として当たり前のように咎人として蔑むのが中流階級以上の人たちです。社会構造の問題などに思いを寄せる人は、ほんの一握り。自分の生活がうまくいっており、破滅する未来など考えもしないのでこのような考え方になるのかもしれません。

 

兎にも角にもひどすぎる、あまりにも辛辣な考え方です。

 

確かに、そういう方々と接していると衣食住を約束されたような余裕のある経済状況の人には理解できない粗野で無教養な世界に見えるのでしょうが、社会がこのような方々を生み出しているのではないか、ということに思考リソースを割り振れないものかと疑問に思います。

 

そういう人たちへの辛辣なコメントについて、その場その場では「そうですねぇ」なんてはぐらかす僕ですが、「世の中がおかしいんじゃないですかね」なんて心の中では一人つぶやいてます。今、僕ら中流が見る世界が自分たちだけの努力で培われたものではなく、運の良さもあると考える方が自然なんじゃないかなぁなんて、考えるわけです。

 

お金がなくて荒んでいる人に向けられる中流階級者の心は、もっと荒んでると思います。さらに、これはお金を持っている人々の共通意識として存在し、一抹の罪悪感すら伴わない状況なのです。ひどい現実ですよ。

 

能力差による差別

仕事ができない人への差別は、日に日に強まっています。入社した新人が仕事ができないとなると、会社ぐるみで総攻撃が始まります。コミュ力がない奴も袋叩きです。かつてみんなで駄目なやつの面倒を見ていた人情職場は、うちには存在しません。

 

いちど駄目の烙印を押されたが最後、そいつは駄目印のブランドを引っ提げて会社で仕事を続けなければなりません。これほど重たいハンディキャップはあるでしょうか。どんなに悪評のある人間でも、噂は噂であり、実際に自分が一緒に勤務してみないとその実力は見れないはずです。にもかかわらず駄目バイアスを全開にしてそいつのことを見てしまう。再評価という選択肢がないのです。

 

これはまるで新卒カードを逃したドロップアウトコースに似ていますね。その時は実力が出し切れなくて道を外れたとしても、その人が本来持っている能力を再評価して救い上げるシステムがあってもいいはずなのですが、まったく構築されていない。今、僕の職場では似たようなシステムが横行しています。

 

もう人として扱われていない。身体に何か問題でもあるのではないか、とさえ言われているくらいです。部署の管理者がそのような発言をするくらい荒んでいる職場で、僕は憂いを感じるしかその術がないのがはがゆいです。

僕の直下の後輩になれば、いくらでも面倒を見ることはできるのですが、他部署でひたすらに摩耗していくいわゆる「駄目な」新人のクソミソにやられている風の噂を聞くたびに切ない無力感にうちひしがれます。

 

「努力しないやつが悪い」このような考え方がまかり通っています。これ、ちょっと違うんじゃないですかね。チームメイトが、そいつが努力できるようなフィールドを作り上げることも必要なんじゃないかなと。

 

本来、持っている良さを駄目バイアスで徹底的に心理的に追い詰めるから、誤作動を起こすんです。僕の前では、彼はそんなに緩慢で無思考ではありません。もっと、伸び伸びとやって成果を出していたはずです。そのようにきつい目で見るから、委縮して駄目になっていくんじゃないかな。

 

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おわりに

自己責任論って、すごく危険だと思います。自分は頑張ってここまでの位置にいるのだから、何の努力もしない奴は朽ち果てて当然。これって、果たしてロジカルでしょうか。

 

ちょっと考えてみましょうよ、自分と同じ境遇でもなければ、運の良し悪しもある。思わぬアクシデントで苦境に陥り、立ち行かなくなった人だっているはずです。自分は運が良いからって、不幸な人を見下す権利などないはず。

 

思うに、想像力が欠如しているのでしょう。「もし、自分が同じような境遇に陥ったらどうだろう」このように考えてみれば、もう少し振る舞いに違いが出てくるのではないですか。まるで、今の厚遇が神から与えられた当然の権利の如く振舞う「運のよい人々」の言動を、僕は正直、許すことはできません。

 

もし今、僕にできることがあるとしたら、何だろうか。このように考えると、心中で渦巻いているこのような世間への疑問を、自分の媒体で思い切り発信することなのだろうな、とそのように考えてこの記事を書きました。

 

冒頭で述べたように、僕もきっと差別者です。貧困者や能力の劣るものを、貧困であり低能だと暗に認めているからこそ、このエントリを書き上げることができたのでしょう。

 

皮肉なことですね、この社会で自分がドロップせずに生きていくには差別について表だって抗議できない弱い立場にいるのですから。もし、明日からでも公の場でこのようなことを声高に叫んで差別解消を謳っても、きっと僕は奇異の目にさらされて世間からはじき出されてしまうことでしょう。だから、具体的な行動を起こす度胸はありません。

 

ですが、心の中だけでもこのような無慈悲な潮流に異を唱えて、僕は生きていきたい。少なくとも、自分の運の良さを棚に上げて貧困者や能力の低いものを見下して生きていくことはしたくない。機会があれば、こうやって世間でおかしなこの構造について意見を発出していきたいです。綺麗ごとと言われても結構です、でも、この思考がひとつひとつ積み重なって、大きな本流となり、社会を変えていく力になるのだと信じてここに意思を表明します。

 

もがき苦しんでいる人を忖度する人が、これを見て少しでも増えることを願って筆をおきます|д゚)

 

2016年12月1日 追記

少し飛躍しますが、隣人だろうが海を越えて住んでいようが、同じ共同体の一員として相手のことを親身になる精神が必要なのだと感じます。「自分は安泰だからそれでよい」という発想は、刹那的で利己的であり、長い目で見れば社会の停滞を助長するのではないかという危惧を抱いています。

 

シナジー社会を目指したい。利他的な社会が理想です。それがシステム化しているのが福祉政府度であり、それを信頼することで今のこの国が成り立っている。今すぐに私財をなげうって貧困者に投資することがシナジーというのは極論であり短絡的です、まずは自分の足元をしっかりと固め、杯からあふれ出た余裕というものを社会における貧困に喘ぐ人たちへの思いやりに傾けるのが健全ではないでしょうか。

 

僕の話ですが、サラリーマンをやってそれなりの年収を得て、さらに人間関係に苛まれることもなくブログからそれなりの収益を得ることもできている。これは相対的に見ると非常に恵まれた幸運な環境です。このような立場にある人がさらに富をため込んで貧困者を見下すようになると捻じれた社会が生まれてしまうのではないかと。

 

経済的にも精神的にも富める者はシナジーの理論、アドラーが提唱する共同体意識について今一度認識し、社会で困窮するものに対する忖度をより深めるのがこれからの健全な社会の構築に必要なのではないかと思うのですね。