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ポジ熊の人生記

雑記ブログの育て方をメインコンテンツに、時事オピニオンや書評などを日々更新中です。

『嫌われる勇気』書評 アドラー心理学本を子育てや勇気づけに

本-メンタル系


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アドラー心理学本『嫌われる勇気』についてのすべてを、感想つきでまとめたものです。

※大変文字数の多い記事です。各見出し毎に、お時間のある時にご覧ください。

書籍『嫌われる勇気』について

一気に読んでしまうほどの大変面白い書籍でしたが、まだ自分の中に内容が入っているとは、とてもではありませんが言えないです。なので、ここにその書籍内容を端的に記載し、まとめることでアウトプットとインプットを兼ねようと考え筆をとりました。同時に、皆様に良書である当書籍を知ってもらいたいという気持ちもあります。

それでは、僕と一緒にアドラー心理学を学んでいきましょう。

 

世界はどこまでもシンプル

これは理想論ではなく現実の話であると説きます。「誰もが幸福になれる」「人は変われるのだ」と。一人の例外もなく、今、この瞬間から。

にわかに信じがたい話ですよね。まずは生まれながらにして差があると感じます。貧困家庭であったり、複雑な事情で虐待を受けてしまうなど。始めからハンデがあると言わざるを得ない人生において「誰もが幸せになれる」というのは、やや強引に感じますが。

複雑な社会構造についてしがらみを感じ、生きにくいと考えているのであれば、それは「あなたが世界の形を決めている」のが原因。問題は世界がどうあるか、ではなく「あなたがどうあるか」

主観が全てを決める。こう言われれば何も言い返せない気はしますが、やはり少々、腑に落ちないですね。これができるなら、人類は皆、幸せになっているはずですよ。だって、考え方を変えるだけで幸せになれるのだから。それができないから、苦しい思いをしているのではないでしょうか。

あなたのかけているサングラスを外して世界を見るには、強烈にまぶしすぎて再びサングラスをかけなおしてしまうかもしれない、または目を閉じてしまうかもしれない。それでもその世界を直視することができるかどうか。そこで試されるのです。それには勇気が必要。あなたにはその勇気がありますか?

・・・なるほど、どんな家庭に生まれようが、どんなに差があろうが、それは自分がそれを「苦しい世界」と見るから苦しいのだ、と。それを自分のバイアスを取っ払って考えるのには勇気が必要だ、と。そうおっしゃるのですねぇ。ふ~む、わかるようでわからない。まだ具体性に欠けているからかもしれませんが。

 

原因論と目的論

アドラーはフロイト、ユングと並び世界三大巨頭で、個人心理学とも呼ばれています。

「アドラー」というのはごく最近知った名前です。フロイトやユングは中学生時代から興味があって書籍を読んでいました。結局はユングに落ち着いて現在に至っておりますが、ここにきてアドラーと出会うとは。それにしても「個人心理学」とはこれまた聞きなれない言葉です。

あるところに引きこもりがいたとします。そうなった原因は様々でしょう。家庭環境に問題があって、なにかしらのトラウマを抱えているかもしれない。だからその人は外に出ることができないのだ、と。しかし、アドラー心理学ではトラウマを完全に否定します。

驚きました。トラウマというのは心的外傷、つまり心の傷です。それは非常に根強く、催眠療法などカウンセラーの力を借りなければ克服できないものだとばかり考えていたのです。というか、今でもそう思ってますよ、こんな話をそう簡単に受け入れられるわけがない(笑)

アドラー心理学では過去の「原因」を考えるのではなく、いまの「目的」を考える心理学です。その人は外に出られないから不安なのではなく、「外に出ない」ということを目的として自己選択しているからこそ、不安という感情を作り出しているに過ぎない。トラウマに自らどのような意味付けをするかによって、現在のあり方に方向付けを行っているだけ。これを目的論という。

僕が肥満時代に受けた心の傷、トラウマが消えるとはとても思えない。しかし、このことをそのまま当てはめると、僕はそれに、今の上手くいかない精神的な原因を押し付けているともいえるのか。う~む・・・目的は何なんだろう。肥満だった自分を受け入れられないからなのかなぁ?この「目的論」という言葉は、この後も良く出てくるから覚えておこう。

過去やトラウマにとらわれる考え方は「原因論」といい、その住人である限りは我々は一歩も前に進めません。

うう、中々に手厳しい。つまり、後ろを向いてそれに今何かをしないことを紐づけている限りは、前に進めないということですか。しかし、いったいどうしたらこの鎖を断ち切ることができるのでしょうか。アドラー心理学は、我々に道筋を示してくれるのか・・・

 

過去やトラウマを否定する

アドラー心理学はトラウマの存在を断固として否定します。「いかなる経験もそれ自体は成功の原因でも失敗の原因でもない。我々はその経験の中から目的を見つけ出すのだ。つまり自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって自らを決定するのだ」と説くのです。

こりゃまたダイナミックですねぇw例えば父親から徹底した虐待を受けて育ったとします。それで現在になり心を病んで休養していたとして、それはトラウマによって決定づけられた原因ではなく、自分がそこに現在の病んでいる自分への意味を見出してしまっている、ということにほかならぬと。そう言いたいのでしょうか。だとしたら、意味づけによっては強く生きることも可能ということ?これまた難しい話です・・・

われわれは過去の経験に「どのような意味を与えるか」によって自らの生を決定しています。人生とは誰かに与えられるものではなく、自ら選択するもの。自分がどう生きるかを選択するのは自分なんですよ!

つまり、他人から見れば壮絶な過去を背負っていても、そこに自分が前向きな意味付けを行えば、現在の生を活気あるものにできる、ということでしょうか。果たして、こんなことが可能なのか。逆を言えば、過去に悪いことを意味づける目的は「今を頑張りたくない」からってことかな?厳しい!

 

手元のカードをどう使うか

アドラー心理学ではこう教えています。「大切なのはなにが与えられているかではない。与えられたものをどう使うかである」と。

つまり、手元のカードでいかに勝負するかが大切であり、「自分にはあれがあるから、これがあるから」というのは言い訳にならないということですね。人がうらやましいなどという妬みの感情が強い人は、与えられたものに腐心している可能性があります。 

 

あなたの不幸はあなたが選んだ

与えられたものに執着しても現実は変わらない。我らは交換できる機械ではない。必要なのは交換ではなく「更新」なのです。

つまり、あれがあれば、これがあればと目に見えるものに腐心せず、自分の内なる部分に目を向けて、その考えを改める(更新する)ことの大切さを説いているのでしょうか。

生まれながらの不幸などは存在しません。それははっきりと否定します。いまのあなたが不幸なのは、自らの手で「不幸であること」を選んだからなのです。不幸の星の下に生まれたわけではありません。

これは反発必至でしょうね。アンチアドラーが増えるのも無理はない。社会的に生まれが悲惨であった場合、それが目に見えたハンディキャップに映るのが世間の感覚だろうし、当事者の主観でもあると思うのです。その主張をここまで一蹴してしまうのですからね。しかし、これには理屈がありそうなので、もう少し読み進めてみます。

自分のことを「不幸」だと考えているあなた。それは状況によりそうなったわけではなく、あなた自身がその不幸を自身にとって「善」であると判断した結果です。それにはしかるべき「目的」があるのでしょう。

自分が不幸だと感じて塞ぎ込んでいる人にとっては、晴天の霹靂ともいえる理論です。誰だって、不幸になりたくて生きているわけじゃない。幸せを求めて、今日も歩どこかで誰かがもがき苦しんでいると思います。そんな人に対して「あなたは好きで今の状況を選択しているんだよ」って言われたら、ねぇ(笑)でも、なんとなくわかる気がするよ。僕もこの本を読んで以来、何か嫌なことがあってもそれにどういった意味付けをするかを考えるようになった。これが過去やトラウマからの解放の一歩なのかもしれない・・・

 

人は常に「変わらない」という決心をしている

あなたは自分のライフスタイル(考え方)自ら選んでいる。その形成はアドラー心理学では10歳前後と言われています。現在の自分が「こんなわたし」と考えているなら、その選択が無意識によって行われてきた可能性もある。外的要因(家庭環境やトラウマ) がどれほどあろうと、それを選択したのは紛れもない「あなた」なのです。

実に厳しいことを言っている。僕は家庭環境が複雑ではなかったし、虐待も受けていないのでまだ力を抜いて聞いていられるが、そういった方々はこれを見た時に「お前に何がわかるんだ!」って激高しながら本を閉じてその場を去っていくのではないか、と危惧してしまう。いや、実際にそうなる人が多数いるだろう。裏を返せば自己選択で人生はいくらでも切り開いていけると説く、しかしその選択には大きな勇気がいる、か。アドラー心理学、恐るべしですね。

ライフスタイルが先天的なものではない。ということは再び選びなおすことも可能なはずです。凄惨な体験をしたり辛い思いをされたり、そういった過去があるのは紛れもない事実かもしれません。ですが、問題は過去ではなく、今「ここ」にあることが重要なのです。過去に囚われて身動きが取れないままに生きるか、新たな道を選択するか。全てはあなた次第なのですよ。

正直なところ、理屈ではだいたい理解できた感はある。アドラー心理学の難しさって、これをいかに自分の中に受け入れて(許容して)それを実生活に反映するかにあるんじゃないかって思う。自分の過去に全ての責任を押し付けて今を進まないのは難しいことじゃない。逆に過去に正の意味付けをして現在を切り開くことは、勇気が必要だし簡単なことじゃない。それでも、今「ここ」を生きるということは勇気を出して進む、ということなんだろうなぁ。それが難しいのよ・・・

あなたが変われないでいる理由、それは自分に対して「変わらない」という決心をしているからです。自分のライフスタイルを変えないでおこうという、不断の決心をしている。つまり人は、種々の不満があろうとも、変わらない自分で居続けるほうが楽だし、安心できると考えているのですよ。アドラーの心理学は「勇気の心理学」とも呼ばれるのです。

変われない、じゃなくて「変わらないという決心」と言われればグウの根も出ないです。はっきりいって強烈すぎます。つまり、自分の中の根本的な部分(アドラーがいう「ライフスタイル」ですかね)を変えない限り、未来を切り開くことができないということでしょうか。なるほど、「勇気の心理学」ですか。納得ですよ。

 

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あなたの人生は「いま、ここ」で決まる

あなたがまずやるべきこと、それは「いまのライフスタイルを止める」という決心です。「もし○○だったら・・・」という可能性の中に生きているうちは、変わることなどできませんよ。あなたは「あなた」のまま、ただライフスタイルを選びなおせば良いのです。

もし、自分のライフスタイルを変えることができないのなら、それは自分への言い訳に過ぎないのでしょうね。けど、ここで早合点してはいけないこともある。それは、自分が所属しているしがらみ(被扶養者の親、会社など)をないがしろにした選択などは難しいということ。アドラー心理学を生活に取り入れて勇気を出していくには、自分自身に経済的な力をある程度は付けないと難しいのかなって、リアルに考えてます。例えば現在(H28/2/4)の僕だったら親にも職場にもかなり依存している部分があって、現在の自分を変えるためにそれらのしがらみを解き放つ必要があるとしたら、まずは最低限、自分で経済的に自立する基礎が必要なんだろうなって。そういうことですわ。

「これまでの人生になにがあったとしても、今後の人生をどう生きるかについて何の影響もない」アドラーはこう教えています。自分の人生を決めるのは「今、ここ」なんだと。

一見すると刹那主義にも聞こえるアドラー心理学。しかし、その思想は深く、果てしなく深く、それは宇宙にまで及びます。それはおいおい見えてくるでしょう。嗚呼、なんて気持ちが良いのでしょう。痛すぎて気持ちがいいアドラー心理学。これは人生における荒療治ではないでしょうか・・・。

 

自分の短所ばかりが目に付く人

それはあなたが「自分を好きにならないでおこう」と決心しているから。自分を好きにならないことがあなたにとっての「善」なのです。それは何のためか?そこは人それぞれで考える必要があるでしょう。やりたいことがあるけど、勇気を出してそれを実行したら、自分の夢が破れてしまうとします。そういった場合に何か他に原因を作り出してそこに逃げ込もうとする。自分の欠点を作り出す。こうすることで「自分はこの欠点があるからそれをできないだけ。まだ可能性はある」と、いつまでも可能性の世界、ぬるま湯に漬かることができる。だから欠点にしがみついているのです。

相も変わらずのアドラー節です。「自分はこういった短所があるから」って言い訳するのは、現状を見つめる勇気がない、と彼は断じているのですね。何か理由を作り出して、決定的に自分が破れることを防いでいる。うだつは上がらないけど、それでも新しい自分になるよりは楽だから。こうやって自分に嘘をつくことが目的で短所に目を向けているということです。あなたは自分の短所ばかりを見て言い訳をしていませんか?それには自分を変えないための目的があったのです。いくじなし、ってやつですねw

 

なぜ短所ばかりを見つめ、自分を好きにならないでおこうとするのか

それはあなたが他者から嫌われ、対人関係の中で傷つくことを過剰に恐れているから。つまり、目的は「他者との関係のなかで傷つかないこと」なのですよ。他者と生きずに社会を生きていくことはできない。アドラーはこうも言ってます。「悩みを消し去るには、宇宙の中にただ一人で生きるしかない」と。こんなことが現実的に不可能です。つまり、われわれは孤独を感じるにも他者を必要とするのですよ。

これは何となくわかる気がします。群衆に中にこそ孤独を感じるのが人間であり、無人島にただ一人で過ごして郷愁を感じるのは、やはり故郷、人とのふれあいですよね。

 

「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」

内面の悩みなどというものは存在しない。どんな種類の悩みでも他者の存在がある。

思い切った発想、というか凄い断じ方をする心理学者がいたものです。すべての悩みは対人関係から発生する、と。しかし、腑に落ちない部分は多々あります。例えばガンの宣告を受けたとしましょう。あと何年生きられるのか。治療を受けるうえでの苦痛は。とにかく不安で仕方ない。この場合は対人関係において悩んでいると言えるのでしょうか。どちらかといえば、内向きに悩んでいるように感じますが・・・。

 

身長が低いことは劣等性ではない!ということ

例えば身長が150cmしかなかったとして、確かに平均よりもそれは低い数値なのでしょう。しかし、自分がそれに対してどのような意味付けをするかが問題なわけです。自分を苦しめているのは「身長が低い」という客観的事実ではなく、「それが恥ずかしい」という主観的な解釈に過ぎないのです。

これはまさにこの通りかもしれませんね。特定のことに対して有利になったり、逆に不利になったりはするかもしれません。ですが、それを自分で「どう思うか」は自由なのです。「チビで恥ずかしい」と思うのも自分、「相手に安心感を与える」と思うのも自分、ということでしょう。

 

優越性の追求

人は無力な存在に始まり、そこから脱したいと願う普遍的な欲求を持っていて、アドラーはこれを「優越性の追求」と呼びました。これは端的に「向上したい気持ち」と言えます。そんな中で人は、理想に到達できない自分に対し、まるで劣っているかのような感覚を抱きます。そんな劣等感でも、人はそれをバネにして成長することができる。

ここで不思議なのは、あれだけ精神論を掲げていたアドラーが、ここで「劣等感」については認めているということです。これをもって、人は成長することも可能である、と説いているのです。ここらへんは後述する内容で理解できると思いますので、先へ進んでみましょう。

 

劣等感と劣等コンプレックスは違う

「どうせ自分なんて」=劣等コンプレックス

本来、コンプレックスというのは複雑に絡に合った倒錯的な心理状態を指すもので、劣等感とは無関係です。劣等感それじたいは悪いものではない(努力や成長を促す)。しかし、劣等コンプレックスは自らの劣等感をある種の言い訳につい買い始めた状態のことを指すのです。

劣等コンプレックスという言葉自体、初めて聞きましたよ。さらに劣等感悪いことではなく、コンプレックスとは無関係とはね。確かに、これを聞くと「どうせ僕(私)なんか駄目なんだ」といって前に進めない人は、見てても残念感が漂っていますね(笑)そういうことでしたか。

 

見かけの因果律

本来であれば何の因果関係も無いところへ「僕が○○なのは××のせいだ」と、あたかも重大な因果関係のように自らを説明し、納得させてしまう。これをアドラーは「見かけの因果律」と呼びました。

ふむふむ、このようにして現在のラフスタイルを変えないための言い訳をしているということですね。変化する勇気がない、と。だから何かを言い訳にして僕らは逃げているのです。

 

優越コンプレックスについて

努力や成長といった部分で自分を補てんすることができない。かといって「僕はAがあるからBができない」=「AさえなければBはできるんだ」といった劣等コンプレックスでもそれを補うことができない。さて、こういった場合に人がとる行動、それは「優越コンプレックス」です。あたかも自分が優れているかのように振る舞い、偽りの優越感に浸るのです。

僕はこれに該当しそうな気がして冷や冷やしているのですが、具体性に欠けるせいか、いまいち想像がつきませんね。もう少し読み進めてみます。

 

身近な例としての「権威づけ」

例えば自分が権力者と仲が良いことをことさらアピールする、あるいは経歴詐称や装飾品の過度なブランド信仰などもこれに該当するでしょう。いずれの場合にしても「自分」が優れているわけではなく「誰か」や「外側を飾るもの」が優れているだけ。つまりは偽りの優越感なのです。その根底には強烈な劣等感があると言えます。

自分に権威づけを行う癖がないのは安心しましたけど、外出時にブランドもので服装に多少こだわる部分はあります。ここは自分にまだまだ自信が持てないことのあらわれなのかもしれません。今すぐにブランド物を止めようとは思いません。それらに商品としての魅力(機能性だとか)を感じている部分も少なからずありますからね。ただ、もしこれから先、自分が徐々にブランド物にこだわらなくなり、自然体で出かけられるようになったら、それは劣等感を克服し始めたのかなって。そう考えても良いかも知れません。

 

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自慢=劣等感

アドラーはこう断じます。「もしも自慢する人がいるとすれば、それは劣等感を感じているからにすぎない」と。

これを見た時は、流石にちょっと凹みましたね。僕はどれだけ劣等感を抱えているんだろうか?ってね。それ以降は自分が何か自慢をしそうな時に「あ、自分は今、劣等感の裏返しを人に話そうとしているんだな」って考えるようになって。めっきり自慢話は減りましたwどうりで人に自慢話を聞かせても面白くない顔をするわけですよね。無意識レベルでも「なんで他人の劣等感を浴びねばならんのだ」って感じているのでしょう(笑)

 

不幸自慢

劣等感そのものを先鋭化させることによって、特異な優越感に至るパターン。これが不幸自慢です。不幸であることによって「特別」であろうとし、不幸であるという一点において、人の上に立とうとしている。自らの不幸を武器に、相手を支配しようとする。

もう完全に僕です(^ω^)ごめんなさい。やれバツがどうだとか、いじめられただとか。そういったものをその場を沸かせるための安易なカードとして切って優越感に浸っていた心の底には、こんな感情が渦巻いていたとは。

過去に対する意味付けが歪んでいるのでしょうね。僕にとってそられは「不幸」なのです。だから劣等感の塊として人に投げつけ、自分の特別感を楽しんでいたものとおもわれます。何たること・・・。それら過去が「不幸」じゃなく「良い経験であった」と意味づけることができれば、不幸自慢なんて始まるはずがない。もっと自分と向き合う必要があるなって感じさせられました。

 

人生は他者との競争ではない

同じ平らな地平に、前を進んでいる人もいるし、後ろを進んでいる人もいます。あなたは誰と競争する必要もなく、ただ前を向いて歩けば良いのです。健全な劣等感とは、他者との比較で生まれるのではなく、「理想の自分」との比較から生まれます。我々は同じではないけど、対等なのです。

これを見てからというもの、僕の考え方は変わりました。自分と異なる意見やふるまいを見れば「それは違う」このようなスタンスで接していたのが従来の自分です。でも、それは間違いでした。相手は相手であって、それを変えようというほうが不自然だったのですね。自分と戦ってもいいのです。むしろ自分と戦うべきだった。ある程度、理想の自分を設定して、それに劣等感を感じることで人は成長していけるのだなって、こう考えられるようになりました。まだまだ垢は落ちきってないけど、この考えを軸にして生きていけば、次第に定着するでしょう。

 

お前の顔を気にしているのはお前だけ

対人関係の軸に「競争」があると、人は対人関係の悩みから逃れられず、不幸から逃れることができません。他者全般のみならず、世界までをも敵に回してしまうのです。あるところに1人の青年がいて、鏡を一生懸命見ながらなりを整えていたところ、家族からこのようなことを言われたそうです。「お前の顔を気にしているのはお前だけ」と。彼はそれ以来、生きていくのが少し楽になったそうですよ。

思い当たるふしがあり過ぎて心が痛いですね。外見を気にする(例えば化粧だとか)は社会で生きていくための外面を形成するに最低限は必要なことであるけども、それは過剰に意識する必要はない、ということです。少なくとも、他者と競うためのそれは、無益であると。思った以上に周りは自分を気にしていない、ということですね。

 

他者への祝福

他者の幸福を「わたしの負け」であるかのようにとらえているから、心から祝福することができないのですよ。大切なのは「人々は自分の仲間だ」と実感すること。それができれば、世界の見え方はまったく違ったものになります。

人の幸せが羨ましい、妬ましいなどと考える人は、その人を競争の対象として見ているということですね。人々が自分の仲間だ、というのは飛躍した考えに聞こえますけど、アドラーを知れば知るほどにこの境地に向かっていく自分が不思議でなりません。外を歩いていても、味方が増えました。それは対人関係云々というよりは、ビューがカラフルになったような感覚です。怖くない。建物も、道路も、空も、なにもかもが。

 

もし相手に罵倒されたら

その人の隠し持つ「目的」を考えましょう。相手は権力争いを仕掛けているのですよ。争ってはいけない。もしあなたが争いに勝ったとして、そのあとに待つものはほかでもない、「復讐」です。権力争いを挑まれても、絶対に乗ってはいけない。

腹が立ちますよね、罵倒されたら。瞬間湯沸かし器の如く、頭に血が上ります。しかし、冷静にこれを考えてみると、このとおりなのです。相手は権力争いに勝ちたいだけなのですよ。ここに益はありません。これを受け流してこそがアドラー心理学の真髄といえます。後述。

 

非を認めることは「負け」じゃない

相手の罵りに対して「怒り」という道具に頼る必要はありません。怒りっぽい人は、それ以外の有用なコミュニケーションツールを知らないだけです。我々には言葉がある。論理の力を信じるのです。人は、対人関係の中で「私は正しいのだ」と確信した瞬間、すでに権力争いに足を踏み入れている。あなたが正しいと思うのなら、ほかの人がどんな意見であれ、そこで完結すべきです。誤りを認めること、謝罪の言葉を述べること、権力争いから降りること。これらはいずれも「負け」ではないのです。

う~む、目からうろこですね。これまで、どれほどの権力争いを僕は繰り広げていたのでしょうか。歳を重ねるごとに謝罪に対する抵抗は少なくなってきましたが、それでもまだ「謝る」ことに多少の抵抗を覚える自分がいます。でも、それはまだ権力争いを放棄できていない証拠。非を認めることは「負け」ではないのですね。これだけでも随分と楽になれます・・・。

 

直面する人生のタスクを乗り越えよ

行動面の目標

①自立すること

②社会と調和して暮らせること

心理面の目標

①私には能力があるという意識

②人々はわたしの仲間である、という意識

 

これらの目標は、アドラーが展開する「人生のタスク」と向き合うことで達成できます。さらに彼は、人間関係を以下の3つのタスクに分けました。

 

「仕事のタスク」

「交友のタスク」

「愛のタスク」

 

一人の個人が、社会的な存在として生きていこうとするとき、直面せざるをえない対人関係。それが人生のタスクです。

 

かなり大きな、漠然とした概念と言えそうです。ここまでではとてもではありませんが具体的なイメージはつきませんね。次はその具体例を例示してみましょう。

 

「仕事のタスク」

  • どんな仕事でも一人では成し得ない
  • 必ず誰かと繋がっているものだ
  • 他者との協力なくして成立する仕事などない
  • 距離の深さの観点でいえばもっともハードルは低い
  • 仕事の対人関係でいえば、成果というわかりやすい共通の目的があり、少しくらい気が合わなくても協力し合うことはできる
  • この段階でつまづいてしまったのがニートや引きこもりである
  • 核にあるのは対人関係であり、全ての諸問題はここに帰結する

 

これまた現実的なものを突き付けてきましたね。確かに、対人関係でつまずかなければ、誰も好きでニートや引きこもりになることはないでしょう。器質的な問題もあり、非常にセンシティブではあるのですが、ここは認めざるをえない・・・

ここを割り切れば、仕事での対人関係に悩まされることは少なくなるかもしれませんね。ここはここで、こういう形の対人関係が必要なのです。それ以上に踏み込んで消耗する必要もなし、ということでしょう。

 

「交友のタスク」

  • 仕事を離れた、もっと広い意味での友人関係
  • 仕事のような強制力がないが、踏み出すのも深めるのも難しい
  • 薄っぺらい大勢の友人など不要。考えるべきは関係と距離の深さだ

 

アドラー心理学とは、他者を変えるための心理学ではなく、自分が変わるための心理学である。

 

あなたが変われば、周囲も変わる。自分らしくあれば、それに導かれた真の交友を得る時が来るだろう。

 

感銘を受けましたね。薄っぺらい交友などを深めても、幸福度には直結しないという客観的データが出ているほどですから。少しの親友さえあればいい。本当の意味で自分を理解してくれる人がいれば良いのです。今はまだいなくても、あなたが自分らしく振る舞えば交友のタスクは進んでいくことでしょう。

 

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「愛のタスク」

2つの段階に分けて考えます。

①恋愛関係

②家族関係(とくに親子)

  • 3つのタスクのうちで最も難しい
  • 交友→恋愛に発展した場合は今までの言動では許せなくなることもある(嫉妬など)
  • アドラーは相手を束縛することを認めない
  • 相手が幸せそうにしていたらその姿を素直に祝福する、これこそが愛
  • 互いを束縛し合うような関係はやがて破たんする
  • 一緒にいて息苦しさや緊張を強いられる関係は恋ではあっても愛とは呼べぬ

 

人は「この人と一緒にいると、とても自由に振る舞える」と思えたとき、愛を実感することができる。劣等感を抱くでもなく、優越性を誇示する必要もなく、平穏な、きわめて自然な状態でいられる。真の愛とはそういうことなのだ。

 

  • 一方の束縛とは相手を支配するための心の現れ
  • 自分と不信感を抱く相手と同じ空間にいて自然にふるまうことなどできぬ

 

「一緒に仲良く暮らしていきたいのであれば、互いを対等な人格として扱わなければならない」

 

眩しすぎて目が潰れそうになりますね(笑)でも、これらに否定する要素などなく、真に僕が目指したい場所はここにあります。みなさん、どうですか?誰かと一緒になって幸せに暮らすこと。これって、簡単なことでしょうか?僕は過去、2回の離婚経験があります。これについて否定することはいまや無くなりましたが、当時の発想「自分が頑張ればなんとかなる」というものがいかに無知で、欺瞞であったかというのを今更ながらに痛感するわけです。

アドラーは恋愛関係よりも親子関係に、次なる理由でその難しさを論じています。それは・・・

 

恋愛関係(結婚含む)は「別れる」という選択肢で断ち切ることができる。しかし、親子関係はそうはいかない。強固な鎖で繋がれているも同然である。しかも自分の手には小さなはさみしかない。しかし、この段階では逃げてはならない。どれほど困難に思える関係でも、向き合うことを回避し、先延ばしにしてはいけない。

 

最も良くないのは「このまま」の状態で立ち止まること

 

複雑な親子関係で悩んでいる人には、大変厳しいことをおっしゃられているなぁって感じます。でも、ここでくじけては未来は切り開けないのも確かです。アドラー心理学を学んでいくうえで、現在の暗闇に対する光明が見えてくるかもしれません。今後、僕と一緒にアドラーを学び、人生航路を開く手がかりを掴んでいきましょう。

 

「人生の嘘」から目を逸らすな

嫌いな相手がいる人は、欠点を許せないからではなく「その人を嫌いになる」という目的が先にあって、その目的になかう欠点をあとから見つけ出している。その目的とは、その人との対人関係を回避するため。

恋愛や夫婦にしたってそう。その場合は「この関係を終わらせたい」と決心して終わらせるための材料を探し回っているから、相手の一挙手一投足に嫌悪感を抱く。相手は何も変わっていない。自分の目的が変わっただけである。

ここは理解に時間がかかりそうです。というのも、人間というのは往々にして、相手に嫌悪感を抱くときは相手側に原因を探ってしまうものだから。これは良くないことだとわかってても、ついついこう考えてしまう。それに、本当の意味で相手が変わってしまった場合はどうなのでしょうか?例えばこちらのことが好きじゃなくなって、とても冷たくなってしまっただとか。そういった相手の決定的な変化でこちらの対応が変わった場合も、自分の目的の変化と言えるのでしょうか?・・・むむむ、書いているうち、本当に「自分の目的が変化しただけ」という結論に至りそうです。だって、相手がどんなきっかけで変化しようとも、嫌いになるための目的付けを行うのは自分だから。

 

人はその気になれば、相手の欠点や短所などいくらでも見つけ出すことができる、きわめて身勝手な生き物。たとえそれが成人君主のような相手でも。だからこそ、世界はいつでも危険なところになりうるし、あらゆる他者を敵とみなすことも可能なのである。

対人関係を回避するために他者の欠点をあげつらうのはもう止めたまえ。このように、さまざまな口実を設けて人生のタスクを回避しようとする事態を指してアドラーはこう呼んだ。「人生の嘘」と。

「人生の嘘」というのは刺さりますね。アドラーを読んで、今の自分が不甲斐ないと感じるのであれば、それは恐らく勇気が足りていないのだと思います。確かに、相手の欠点なんていくらでも見つかる。自分の闘争や憎悪の念に全てを委ねれば、ポンポン出てきそうですよね。それは相手を敵視しているからにほかならない。だけど、なぜそんなことをするかといえば、対人関係を避けているからなのですね。要するに恐いのです、踏み出す勇気がないのです。

 

自分のライフスタイル(人生のあり方)決めたのは紛れもない、自分自身である。つまり、責任の転嫁はどこにもできない。いま、われわれが語るべきは善悪でも道徳でもない、「勇気」の問題なのである。

ここまでアドラーを読み進めてきた方は、うすうすは感づいていらっしゃるでしょう。まさにこれが「勇気の心理学」たるゆえんです。ここまできた道は自分で選択したもの。誰の責任でもない。それを受け止める勇気をもって、人生に望むべし。彼はこう言いたいのでしょうね。

 

所有の心理学→使用の心理学

アドラーは「勇気の心理学」だが、もう一つ付け加えるなら「使用の心理学」とも呼べるだろう。つまり、「なにが与えられているか」ではなく「与えられたものをどう使うか」ということが肝心なのである。

われわれ人間は原因論的なトラウマに翻弄されるほど脆弱ではない。目的論の立場になって自らの人生を自らの手で切り開くのだ。われわれにはその力がある。

過去にどんな辛いことがあったか、また、それによってどんな心的外傷を負ったかに囚われる必要はなく、これから今あるもので、どう勝負していくかが肝心なんだ。つまり、カードの配られ方やその品質に腐心するよりも、手元にあるカードで勝負しようぜ!ってことでしょうね。アドラー心理学って、けっこう体育会系な心理学なんじゃないかたと、時々思うことがあります(笑)

 

自由とは何か?

「貨幣とは鋳造された自由である」とはドストエフスキー小説の一節である。しかし、そこから「自由とはすなわち貨幣である」とはいえない。お金によって得られる自由もあるが、やはり得られぬものは「対人関係の悩みから解放されること」である。

魂はお金では買えない、とはよく言ったものですが、ここまで掘り下げなくとも身近にあるそれはお金じゃ自由にならなかったのです。そう、対人関係ですね。仲の良くなりたい人に「1000万円上げる」といって現金を見せたとします。そこで真の繋がりを得ることなどできるでしょうか?もしそこで見た目だけでも繋がったとすれば、それはお金という媒体で見せかけの連結をしたに過ぎないのです。実に脆いものでしょうね。

 

考えてみたい。対人関係の何が我々の自由を奪っているのか。「親に認められたい」「上司に認められたい」「誰かに認められたい」・・・このような承認欲求が自由を奪っているのである。アドラー心理学では他者から欲求を求めることを否定する。他者から承認される必要などないという。

ブロガーを引き合いに出しますと、記事を書くことでレスポンスを得て、それで承認欲求を満たすことが最大のモチベーションとなっているユーザーも少なからず存在します。ですが、これは自由を奪っているということに繋がる、と仰る。つまり、アドラーの教えに従うのであれば、こうするべきだと。だれが何と言おうと、どんなにレスポンスが少なかろうと、承認欲求に振り回されずに自分らしく振る舞う。これが真の自由であると説くのですね。深い・・・

 

誰かの期待を満たすために生きるな!

褒められなければ、あなたは良いことをやめてしまうのか?誰かに承認されなければ善は行わない?ここに承認欲求の危うさはある。これは賞罰教育が影響しているとも言えよう。良いことをした時だけ褒められ、悪いことをすると罰せられる。アドラーはこういった教育を厳しく批判する。

 

我々は「他者の期待を満たすために生きているのではない」

 

他者の期待などは満たす必要がないのだ。「自分が自分のために自分の人生を生きていないのであれば、いったい誰が自分のために生きてくれよう」これはユダヤの教えである。

他者からの証人を求め、他者からの評価ばかりを気にしていると、最終的には他者の人生を生きることになる。

もしもあなたが「他者の期待を満たすために生きているのではない」とすれば、他者も「あなたの期待を満たすために生きているわけではない」ということになる。つまり、相手が自分の思うとおりに動いてくれなくても、怒ってはいけない。それは当たり前のことなのだ。

畳みかけるようにアドラーの理論を列記してみました。どうでしょうか、凄まじいものがありますね。誰かの期待を満たすために生きるのではなく、自分を満たすために生きるべし、と。それは相手も一緒であり、人はみなそれぞれの「自分」を満たすために生きているのであって、「僕」を満たしてくれることはないのです。だから「どうして僕の思うとおりに動いてくれないの」「僕の考えもしないことを言うの」なんて考えて腹を立てる必要はないのですね。それはそれぞれが自分のためにとった行動の結果なのであり、コントロールすることは不可能なのですから。

 

身勝手に振る舞え、と言っているのではない。ここからはアドラー心理学における「課題の分離」というものを知る必要がある。

そうですよね。承認欲求を捨てて自分のために生きる、ということはかなりわがままで傍若無人な振る舞いをしても良いのか?という単純な発想にも繋がりかねません。しかし、ここからがアドラー心理学の真髄といっても過言ではありません。自分に変えられるものと、変えられないものの見極め。そのようなことを実践するための理論に近づいています。

 

課題の分離とは

勉強もせず、授業も聞かない子供がいたとする。 もしあなたがこのよう子の親だったらどうするか。おそらく、机に縛り付けてでも勉強させるだろう。しかし、これでこの子は勉強好きになったかというと、おそらくなっていないのではないか。

アドラー心理学では「これは誰の課題なのか?」という観点から話を進めることになる。子供が勉強するのか、それとも遊ぶのか。これは「子供の課題」であって親の課題ではない。子供の代わりに親が勉強しても無意味なことから、これは理解できるだろう。子供の課題に対して親が「勉強しなさい」ということは、土足で踏み込む行為に等しい。

我々は「これは誰の課題なのか?」ということを考え、自己の課題と他者の課題を分離していく必要がある。他者の課題に踏み込んではいけないのである。

これを見た時にまず思ったのは「なんともニヒルな考え方だな」ということ。誰かにアクションをかける、つまりここでいう「踏み込む」ことにより相手に影響を与え、少しでも変化を求めるということ。それってつまり、人の繫がりだと考えたのです。しかし、アドラーはそれを否定した。僕は解らなくなりました。自己と他者の課題を切り離す行為は、人との繋がりを希薄にしてしまう冷徹な意識を醸成してしまうのではなかろうか。

 

あらゆる人間関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むこと(もしくは自分の課題に土足で踏み込まれること)で発生する。

その課題は誰の課題なのか、この線引きについては決して簡単なものではないが、こう考えると解りやすいだろう。「その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?」

勉強しない子供に対して親が勉強を強いることは、人生の先輩として庇護者として当然の行為であると思われがち。「あなたのために言っているのよ」などという言葉は良く耳にする。しかし、これは欺瞞以外の何物でもない。「あなたのため」ではなく「自分のため」に言っていることに気付くべきである。それを子供は敏感に察知し、反発するのだ。

思い当たる節はあります。自分が子供時代に、やろうとしていたことを先回りするように親に言われるときのガッカリ感たるや、言葉では説明できないほどの虚しさと憤りを感じたものです。自主的に、責任感をもって自分の課題に取り組もうとしたのに、親といえども土足で入り込んできた親に、子供は強烈な反発心を抱くものです。

 

放任とは違うことに注意すべし

子供が全く勉強しないからといって、それを「放置」すればいいというわけではない。ここには注意しなければいけない。アドラー心理学は放任主義を推奨しない。放任とは子供が何をしているのかすら知らない、無関心になることを指す。そうではない。子供がやることを把握し、関心を示し、そのうえで見守ることが大事なのだ。

勉強についていうならばそれは子供の課題であることを伝え、勉強がしたいと思ったときにはいつでもそれを援助する意思があることを伝えるべきだ。しかし、頼まれもしないことを先回りしてお膳立てして口出しするなど、子供の課題に土足で踏み込んではいけないのである。

親としてははがゆいでしょうね。「このまま放っておいては、あいつは駄目になるに決まっている!」なんて気を揉んだりなんかして。どうしても口を出してしまうのですよ。それが親心ってやつなのでしょう。子供の将来が心配なんですよね。幸せになってほしいのです。でも、アドラーはこう教えているのです。真に幸せを願うのであれば、自分の課題は自分に越えさせろ、と。その子供の課題に土足で踏み入るようなことはするな、とね。親には、色々な意味で忍耐が必要なのです。無関心でもいけない。けど、干渉してもいけないのです。

 

決断するところまではアシストできるが、決断は本人にさせる。自分を変えることは自分にしかできぬ。重要な決断を他者にしてもらうようなことはすべきではないし、してはならない。

確かにそうですね。「これはどうだ」「あれはどうだ」なんて敷かれたレールの上を走って、そこで脱線したときに「あなたがこうしろっていったから選んだ道なのに、失敗した!どうしてくれる!」と責任転嫁に走る。そりゃそうでしょうね、そのようにお膳立てしたほうが悪いのです。本人に決断させないと、自分の人生に責任が持てなくなる。

 

他者の課題を切り捨てろ

引きこもりの場合を考えてみる。このような人間に対しても親は他者の課題として切り捨てねばならないのか。端的に言えば「YES」だ。原則、本人が解決すべき問題である。だが、親も赤の他人ではないので、なんらかの縁城は必要となるだろう。

この時に最も重要なこと、それは子供が窮地に陥ったとき、素直に親にヘルプを出せるか、日常からそのような信頼関係を築いているかということだ。

引きこもり者にとってみれば厳しい言葉なのでしょうが、うすうすは気が付いているのではないでしょうか。親がジタバタしても始まらない、結局は本人の問題なのであると。援助というのは具体的には衣食住などでしょう。さらにいえば精神的な支え(土足で踏み込まない範囲で)ということになりそうです。しかし、信頼関係なく意思の疎通もままならぬようでは、そのような精神的援助も滞り、子供が新たなステップに進む際にくじけても誰にも助けを求められない状態になってしまいますね。つまり、窮地を脱するためには、親や子供との信頼関係構築が課題ということになります。

 

理想の形、と言えるかどうかはわからないが、アドラーの教えに従えば、実際に子供が引きこもりになった場合の対応を箇条書きで記す。

 

  • まずは「子供の課題である」ことを認識する
  • 状況に介入せず、過度の注目を止める
  • いつでも援助できる用意があることを伝える

 

こうすることで親の変化を察知した子供が、自分の課題に取り組んで援助を求めてくるかもしれないし、独力でなんとかしようというアクションを起こすかもしれない。

過保護な親に聞かせてあげたい言葉ですね。「心配なのよ」「大丈夫?」などと過度に声をかけることは、本人が前に進むことを阻害しかねません。そのように親が振る舞うことで、子供はその愛情を獲得しようとさらに引きこもるかもしれない。だって、そうすれば親は心配してくれて愛情が注がれるのだから。何でもかんでも心配すれば良いってもんじゃないんですよ、お父さん、お母さん。良く考えましょう。

 

親が子供の心配をするほど駄目になっていく

子供は独立した個人であり、親のものではない。「子供こそ我が人生」と考える人は、「自分」というものが抜け落ちている。「自分のために生きること」ができていない証拠だ。距離の近い家族だからこそ、意識的に課題の分離を行うべきである。相手のことを信じるのは自分の課題である。だが、あなたの期待や信頼に対して相手がどう動くかは相手の課題なのだ。そこで自分を押し付けたものは時に「ストーカー」のような存在になる。介入者である。

相手が希望通りに動いてくれるかどうか、そんなものは信じることになんら影響を与えるものではない。アドラーが語る「愛のタスク」は、そういったことまでを問うているのだ。

「ここから先は自分の課題ではない」と切り捨てること。これこそが人生の荷物を軽くし、世界をシンプルなものにするのである。

近い存在(家族)だからこそ、介入も簡単に発生し、そして子供の人生を破壊することも容易いということでしょうか。だからこそ、そこにはしっかりとした境界線、課題の分離を行わねばいけないのですね。他人なんてのは簡単ですね。「自分とは関係ないから、良いんじゃないかな」なんて気楽に言えます。ですが、家族というのはそうもいきませんからね。

ここで注目したいのは「信頼すること」ですね。相手のことを信じて、期待したりアクションをかけることもある。ですが、これについての反応はもうあなたにコントロールできない。全ては相手次第なのです。ここでしっかりと手を離す。これが肝心なのですね。もちろん、期待に応えてくれた時は、喜びはひとしおでしょうが(^^♪

 

対人関係の悩みを一気に解消する方法

自らの生についてあなたにできること、それは「自分の信じる最善の道を選ぶこと」だ。一方で、その選択について他者がどのような評価を下すのか。これはその他者の課題であり、あなたにはどうにもできないのである。

誰かの下す評価で右往左往。これは多くの人が日常的に繰り返していることのような気がします。社会と折り合いをつける最中でそのような壁にぶち当たることは少なくありません。ですが、これについては自分では本当にどうしようもない。相手を変えることはできないのです。相手は相手の人生を生きており、僕たちでそうにかできることではない、ということですね。それについて残念に思う気持ちは少なからずあるでしょうが、いつまでもこれに腐心して気持ちをすり減らすこともない、ということでしょう。

 

対人関係の悩みを一変させる可能性を秘めた、アドラー心理学ならではの画期的な視点。それは

 

「他者の課題に介入せず、自分の課題には誰一人として介入させない」

 

ことです。

 

子の心配をする親。「あれは大丈夫なの?」「これはこうしたほうが良いんじゃない?」これらは全て介入です。いかに子供とはいえ、自分ではありません。このように土足で相手に踏み込むことは良くありません。それをもって子供が前に進むことの言い訳にしてしまうかもしれない。成功するにしても、失敗するにしても、その子の自主的な判断、自分の課題に立ち向かわせることを阻害する行為に等しいのです。また、自分にも誰も立ち入らせてはいけない。あの人がこうしろといったから・・・これでは進めるものも進めません。だれかに自分の人生の責任を押し付けるのは、もう止めませんか? 

 

課題の分離は入り口にすぎぬ

対人関係の最終目標は 課題の分離にあらず。むしろ入り口である。良好な対人関係を結ぶには、ある程度の距離が必要。それは親子関係にしてもそう。差し伸べれば手は届く、だが相手の領域には踏み込むべからず。これが適切な距離感なのである。「子供のために」などという行為は見返りに縛られた行為だ。親が何と言おうと、アクションを起こすべくは子供自身なのである。

対人関係のベースに見返りを置いてはいけない。「私はこれだけのことをやったんだ、だからあなたもこれだけのことを返してくれ」このような発想に陥ってしまう。これでは課題を分離できているとはとても言えないのだ。

耳が痛い親御さんもいらっしゃるでしょう。子供にお膳立てしたとする。それで子供に「こうなってほしい」という見返りを求めてはいませんか。そんな欺瞞は早々に捨てると良いです。子を見捨てろ、と言っているのではありません。そうじゃなくて、見守ってあげてほしいのです。そのために親に求められるのはエゴを捨てるための忍耐でしょう。気持ちは大いに理解できますが、お子さんが本当の意味で前進することを良しとするのであれば、間違っても自分が相手の決断に対する責任を負えるなんて思わないことです。

 

アドラー心理学には「常識へのアンチテーゼ」という側面がある。原因論やトラウマを否定し、目的論を探る。人の悩みは全て対人関係と説く。承認を求めないこと、課題を分離すること。全ては常識へのアンチテーゼなのである。

アドラー心理学を読み始めた時に度肝を抜かれ続けたことは記憶に新しい。それだけ僕の中の常識というものがこりかたまっていた証拠です。まさに常識へのアンチテーゼ、アドラー恐るべしといったところでしょう(笑)しかし、不思議ですね。読み進めていくうちに、こんなにすんなり心に落とし込まれる学問というのも、成人してからは出会ったことがない。妄信は危険、されど対人関係において現に良好な結果を生み出しているこの学問に、僕はそこまで疑念を抱いてはおりません。クリティカルな視点も必要でしょうが、今は兎にも角にも学ぼうないう気持ちが強いですね。

 

承認欲求は不自由を強いる

  • 他者の期待を満たすように生きることは楽である
  • それは自分の人生を他人任せにしているから
  • 親の敷いたレールの上を走るのは不満はあっても道に迷うことはない
  • しかし、自分で自分の道を決めようとすれば、迷いが出る
  • いかに生きいるか、という壁に直面するのである
  • 他者からの証人を選ぶのか、承認なき自由を選ぶのか

誰かの決めた道を歩くことで、道に迷わないことは可能でしょうね。だらか楽ちんなんですよ、親の勧めた職場に就職し、親の連れてきた女性と結婚する。親じゃないにしろ、誰かが決めた道を歩いている限りは踏み外さないものだから、それに甘えて勇気を出さずに生きる。でも、どこか自分の意志が空虚になっていることに気がついて、むなしくなることもあるかもしれない。さて、あなたならどちらの道を選びますか?

 

  • 他者の顔色を窺い、誰かの望みをかなえるために生きることは道しるべになるかもしれぬ
  • だが、これは非常に不自由な生き方だ
  • これを選択するものは承認欲求というのを建前にしているだけだ
  • 要するに「自分が嫌われたくないから」なのである
  • しかし、誰にも嫌われずに生きることは可能かどうか自問せよ
  • 10人中、10人に好かれるように振る舞えばボロが出て信用を失うだろう
  • 嘘をつき続けるのも相当なるストレスに違いないこれは自分に嘘をつき、周囲の人間をも欺き続ける人生にほかならぬ

嫌われたくないのは人の常だけど、誰かから好かれるために生きることは不自由な人生である、とアドラーは説きます。実は僕も、これを聞くと大変に耳が痛いのですよね。どうしても人の顔色を窺ってしまうところがあって。可能な限りみんなに好かれたいと思ってしまう。だからその場限りの迎合をすることもある。だけどこれは結果的に、信用を失ってしまうのですね・・・。

 

  • 自己中心的に好き勝手に生きろということではない
  • 自己中心的とは、他者の課題に介入する発想にほかならない
  • 自分が自分の人生を好きに生きてはいけない理由などない
  • 自由な若者を非難する大人は、自分の不自由さを納得させるために漏らす
  • 本当の自由を選んだ大人なら、そんな言葉は出てこない
  • むしろ自由であることを応援するだろう

 

大昔のエジプトの壁画にも「最近の若い者は」という言葉が出てくるそうですね。世代間の教育の差もあるのでしょうけど、大人というのは若かりし頃の自由を失っている人が多い。そして自分の不本意な形で社会で生きている留飲を、若者の自由な発想やふるまいに矛として向けてしまうのかもしれません。こう考えると、若者を揶揄するおじさま方が急に可愛らしく、そして哀れにも見えてきますね。

 

ほんとうの自由とは「嫌われる勇気を持つこと」!

  • われわれの努力とは関係なく、自分のことを嫌う人間もいる
  • 人は誰かから嫌われたときは傷つき、深く悩みがちだ
  • 他者から嫌われたくないという真理は普遍的なもの
  • 近代哲学の巨人カントはそうした欲望を「傾向性」と呼んだ
  • 本能的な欲望、衝動的な本能ということ
  • 傾向性の赴くままに生きることは坂道を転がる石に同じ
  • それは自由とは言えぬ。本当の自由とは転がる自分を押し上げることだ
  • 承認欲求とは自然な欲望である
  • つまり他者からの証人を求め続けることは坂道を転がり続ける石ころのような人生ということ
  • 行きつく先は「本当の自分」なのか?そんなはずはない。
  • アドラーは言う、全ての悩みは対人関係に帰結する、と
  • われわれは対人関係からの自由をもとめている

 

「自由とは、他者から嫌われることである」

 

  • 誰かに嫌われているということは自由を行使している証拠
  • 全ての人から嫌われない生き方は不自由極まりない生き方
  • 自由を行使したければ、そこにはコストが生ずる
  • 対人関係における自由のコストとは他者から嫌われることなのだ

 

「他者の評価を気にせず、他者から嫌われることを恐れずに承認されない可能性というコストを支払わなければ自分の生き方を貫けない」

 

補足しておきたいのですが、別に自ら積極的に嫌われる必要もないし、傍若無人に振る舞えと教えているわけじゃないのですよね。課題を分離して、他者に介入せず、自分と向き合って自由に振る舞った結果、誰かに嫌われることがあるかもしれない。それを恐れるな、と教えているのでしょう。誰かに嫌われたくないから、自分らしさをおさえて人の言う通りに振る舞う。これは大変に不自由な生き方であるということですねぇ。

難しいと思います。僕の中でも、誰かに嫌われたりそれを直に聞いたりしたことを想像するだけでも嫌な気持ちになる。ですけど、僕らしさを封じ込めてまでその人の顔色を窺う必要はない、ということでしょうね。結果的に嫌われてもそれは他者の課題。自分にとっては関係なし、と。この境地に達するにはどれほどの時間が必要か、見当もつきません(^-^; しかし、こう考える、気づくとこからがスタートです。僕は今、スタートラインに立っているのです!

 

「幸せになる勇気には、嫌われる勇気も含まれる」

 

 

対人関係のカードは常に自分が握っている

  • 過去に親に暴力を振るわれた過去があったとする
  • それはトラウマとして自分の中にあり、それが親と信頼関係を築けない「原因」であると決めつける
  • これではいつまでたっても「自分」ではどうすることもできない状況を作り出す
  • このような原因論ではなく、目的論的に考える必要がある
  • 自分は親から暴力を振るわれたトラウマがあるから親と信頼関係を築けないと考えている
  • だがそれは違う。本当はこうなのだ。「親と信頼関係を築きたくないがために、その過去を持ち出している」ということ
  • つまり目的は「親と信頼関係を築かない」ことなのである
  • このような考え、過去のトラウマへの言い訳的意味付けを排除する必要がある
  • 目的論で考えることにより、暴力をふるう親が変わった、または変えられるかどうかと考えることは間違っている
  • そもそも自分以外の誰かを変える行為は不遜である。変えられるのは自分だけなのだから
  • 自分が変わったところで、変わるのは「自分だけ」なのだ
  • 対人関係とは他者やその他大勢をイメージしがちだが、それは誤り
  • まずは「自分」というものがくる。これが摂理である
  • 承認欲求に縛られるな。人生のカードを他者に握らせるな、自分で握れ
  • 課題を整理せよ、自由についてもういちど考えを整理せよ

 

「嫌われる勇気」を持つことは時間が必要

とても感銘を受けると同時に、受け入れて自分のものとして実践するには時間を要するセクションだと感じました。

自分も少なからず、過去の親の教育方針に対して不信感を抱いています。賞罰教育が現在の劣等感をもたらしているだとか、共働きにより寂しい思いをした結果、AC(アダルトチルドレン)となってしまったのではないか、など。しかしこれは、現在僕が頑張らなくていいための「目的」に過ぎない。何かを「やらない」がためにこのようなことを持ち出して言い訳とする。勇気のある人生とは言えません。

今は完全に頭を切り替えることなどできません。しかし、アドラーの教えは日々、確実に僕の中に入ってきています。時間をかけてでも受け入れて、あるべき境地に達したい。この素晴らしき学問との出会いに感謝し、これからも学んでいきたいと考えております。

 

他者の課題分離についてはハードルがあります。

僕は、昔から人のネガティブな感情に弱い。つまり傷つきやすい性格なのです。これは自覚しています。しかし、誰かが僕にそのようなことを言うのは自分の課題ではなく「他者の課題」です。それを受け取ってどうするかは自分の課題であって、これに右往左往されずに生きていくのが理想なのですけど、どうしてもまだまだ弱い!

人に嫌われたくないという気持ちもあるのでしょうけど、これは前回学んだ「自由に振る舞う、自分らしい人生」を阻害するものです。つまり僕はまだまだ、自由に振る舞って生きることができていない、ということになる;;

そのような攻撃?に対してはセルフコントロール力を付けるために、アンガーマネージメントについても並行して学んでいきたいと考えております。悪口を流せるくらいの境地に、早く達したいものですわ。

 

個人心理学

  • 他者と課題を分離することは、他人との繋がりを避けるニヒリズムに捉えられがちであり、「個人心理学」というのは確かにそのような誤解を招くことも少なくない
  • もともとindividual-psychologyとは「個人をこれ以上分割できない」という意味である
  • 理性と感情、心と身体、意識と無意識。これは切り離すべきではないとアドラーはいう
  • 身体症状と心も然り。それは別々のものではなく全体として発現するもの
  • 一時の感情に駆られて怒鳴りつけたとする。これは「一時の感情が引き起こしたもの」ではなく「個人全体として発せられたもの」と解釈する
  • もしここで「これは一時の感情が起こしたものだ。全体としては無関係だ」と言うのであれば、それは人生の嘘にほかならぬ
  • 人間をこれ以上分割できない存在とし、「全体としての自分」を考えることを「全体論」と呼ぶ
  • 良好な対人関係を結ぶにはある程度の距離感が必要なことは説明したはずだ
  • 距離が遠すぎてもいけない。課題の分離は他者を遠ざけるための発想に非ず、複雑に絡み合った糸をほぐしていくための発想なのだ。全ての糸が「つながり」ではない
  • 課題を分離するということは、対人関係のスタート地点なのである

 

 

つまりこれらを実践できていない、ということは、アドラーにとってみればまだスタート地点にすら立ててないということになりますね。

話がやや戻りますが、「全体論」について。これはじっくりと自分の中に落とし込むことが必要です。「あの時はどうかしていた」「ついカッとなって」なんてよく聞く話じゃないですか。それで「まぁ、感情的になっていたのなら、仕方ないよね」と半ばそれを容認するかのような風潮もあります。ですがこれらは本人にとって人生における嘘にほかならなかったわけです。過去の過ちに対し「あの時は自分の意志に関係ない」なんて言えることではないのですよ。全ては個人全体として選択した行動なのです。そう考えると過去のトラウマを原因として意味づけるのみならず、自分の選択についても逃げ道や言い訳などは一切ないということになりますね。甘ったれには実践の難しい心理学のような気がしますw

 

対人関係のゴールは「共同体感覚」

  • 共同体感覚とは、「他者を仲間だとみなし、そこに自分の居場所があると感じられること」を指す。問題は共同体の中身である
  • 共同体のイメージは家庭や学校、職場、地域社会といったものを連想するだろう
  • しかしアドラーはこのように定義した

 

「家庭や学校、職場、地域社会のみではない。国家、人類、過去や未来、動物や無生物。宇宙全体全てが共同体ある」

 

  • これについては当然に受け入れられぬものとして多くの人間がアドラーのもとを去った
  • アドラー自らが「到達できない理論」として認めるほどの概念ではある
  • だが、ここを理解できない限りはアドラー心理学を理解したことにはならないだろう
  • 「全ての悩みは対人関係に帰結する」「不幸の源泉は人間関係にある」裏を返すと「幸運の源泉もまた、人間関係にある」ということも言える
  • 共同体感覚とは、幸福なる対人関係のあり方を考えるもっとも重要な指標なのだ
  • 社会の最小単位とは「わたしとあなた」である。二人の人間がいればそこに社会が生まれ、共同体が生まれる
  • アドラーの語る共同体感覚を理解するには、まずこの最小単位を起点にするとよい

 

「頭で解ってはいるけれど」という言葉がありますが、共同体感覚が宇宙である、というのは頭でも到底理解できる代物ではないでしょう(直ぐには、ね)。ですが、本当に不思議なんですが、「なんとなーーーーく」わかる気がするのですよ。突き詰めれば、ここに辿り着くような気がしないでもない、と考える自分がちょっと恐かったり(笑)他人に「突き詰めると、宇宙なんだよ」なんて話そうものなら電話帳で良い病院を探されるかもわからないです。

なんですけど、著者は言います。ここを理解しないと、アドラーを理解したことにならぬ!と。であれば僕は理解するように努めましょう。それがどんなに到達できぬ理論であろうとも、そこまで歩こうではありませんか!

次なる話題は自己への執着と他者への関心にうつります。アドラー心理学には、どこか抽象的なイメージはまだまだ払しょくしきれない自分がいます。しかし、ここからは徐々に内から外へと視点が移行していきますので、また違った気づきを得られるはずですよ。一緒に楽しく学んでいきましょう♪

 

なぜ「自分」にしか興味がないのか

  • 自己中心的とは、暴君や集団の輪を乱す人間を想像するのが一般的だろう
  • じつは「課題の分離」ができずに承認欲求にとらわれている人間もまた極めて自己中心的といえる
  • 他者の評価を気にして生きている人間は、つまり自分のことしか見ていない
  • 他者への関心を失い、自分にしか興味がない、それは自己への執着である

 

「他者からどう見られているか」ばかりを気にする生き方は、「自分」にしか関心を持たない自己中心的なライフスタイルである

 

言われてみれば、確かにそうですよね。誰かの機嫌を損ねたくないから振る舞いをコロコロと変える。これは相手に関心があるからではなく、「自分が可愛いから」「自分にしか興味がないから」行っていることに他ならない。

自己への執着は捨てねばなりません。いつまでも可愛く見られたい、などと思っていては、真に他人に関心を持つことなどは到底不可能なのですね。誰にでも愛想を振りまく人生は終わりにしましょう。少しずつでも、自分らしさを出していきませんか?

 

あなたは世界の中心ではない

  • われわれは共同体の一部としてそこに所属する
  • そこには自分の居場所がある、ここにいても良いんだ、という所属感を求める
  • 自分の人生における主人公は「僕」で間違いない。だが、「僕」は世界の中心ではない
  • 人生の主人公でありながら、あくまでも共同体の「一部」なのである
  • 自分にしか関心がない人間は自分が世界の中心だと錯覚しており、自分の気持ちを最優先に考えるべきだと半ば本気で考えている
  • 彼らは自分を「世界の主人公」であると勘違いしている

 

他者に接するときも「この人は僕に何を与えてくれるのかな?」それは、まるで王子様の如く・・・

 

  • しかし、他者はあなたの期待に応えるために生きているわけではない
  • それなのに自分の期待に応えられなければ失望し、憤慨する
  • 自分が世界の中心だと考える人間は、遅かれ早かれ仲間を失うだろう
  • あなたは共同体の一部であり、中心ではない

 

自己中心的、と呼ばれる人は、その名のとおり自己を中心として世界が回っている人であり、誰かと接するときも「与えてくれる」ことが前提なのですね。こう考えると、大変了見が狭く気が短いイメージを持ちますね。「あなたは私にこうするべき」なんて考えているわけですから、そりゃしょっちゅう怒るのも無理はない。けど、勘違いも甚だしいわけです。世界はあなたを中心に回っていない。一部ではあっても、全てではない。逆はあり得ないのです。ここをはき違えると、あっというまに嫌われ者まっしぐらですね。皮肉なことに、世界の中心にいたと思えば、世界にただ一人となってしまう危険性があるということなのですねぇ。

 

 

  • 先述の通り、我々は「ここにいても良いんだ」という所属感を求める
  • しかしこれは、ただそこにいるだけで得られるものではない
  • 共同体に対して自らが積極的にコミットすることによって得られるものだ
  • これはすなわち「人生のタスク」に立ち向かうことである
  • 仕事・交友・愛という対人関係のタスクを回避することなく前進することだ

 

「私はこの人になにを与えられるか?」を考えなければならない。所属感とは、生まれながらにして与えられるものではなく、自らの手で獲得していくものだ

 

アドラー心理学は「個人心理学」とよばれ、どこか冷たいニヒルな印象を持たれがちですし、現にそのように受け取ってしまう人も多いのだそうです。しかし、いよいよここからが他者との関わりにつながってくる移行部分と言えそうですね。

所属感を得るためには、与えられるだけと考えていてはいけない。他人に何を与えられるか?これを考えることで獲得していけるものであると説いています。これはいったい、どういうことなのでしょうか?

 

より大きな共同体の声を聴け

 

  • 対人関係の入り口は「課題の分離」で、ゴールは「共同体感覚」である
  • 共同体感覚とは「他者を仲間だとみなし、そこに自分の居場所を感じること」
  • 宇宙全体を共同体とするにはあまりにも抽象的すぎるため「共同体の範囲は無限大である」と考えるべし
  • 会社に打ち込んでいた人間が退職を機に急に元気がなくなるのは、会社のみがその人にとっての共同体であったのが原因である。これでは良くない。その人は大きな意味で会社以外の共同体、すなわち自治体や国家、地球や宇宙というものに包含されており、その一部なのである。これを忘れてはいけない
  • 逆に親のすねをかじっている引きこもりでも、そこで生きるために何らかの食物を食べるだけでもあらゆるもの(社会)と繋がっていると言える。これは空想なんかではなく、事実だ

 

 

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あなたがもし学校に所属しているのであれば、それは同時に自治体・国家・地球、大きく見れば時間軸を含めた宇宙に所属することになる。つまり、学校という小さな枠から外れたところで絶望することはない。

 

 

 

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教師が学校で次のように述べたとする。

「俺はお前たちより偉いんだ。だから俺の言うことには何でも従ってもらう。学校ではこれがルールだ」

つまり人間としては明らかに対等ではないということをこの教師は示している。このような理不尽な主張に対しては、生徒もへりくだることなく異を唱えるべきだとアドラーは言う。より大きな共同体感覚でいえば、教師と生徒は同じ人間であり、社会の一部である。そこに優劣などは存在しない。大きな原則を覆す力などは小さな共同体(学校)には存在しないのである。

はき違えてはいけないのは、校則等守るべきルールを破って良いというわけではないことだろう。それに従い、秩序を守ることもまた大きな共同体の意志でもある。大事なことは、小さなコモンセンス内で大きな共同体の意志に逆流するような、自然の法則に反するようなことは教師にも生徒にも認められていないといういことである。

 

全て人間は平等であることを前提として生きたい 

会社内など小さな共同体では、往々にして人格否定が横行したり、大きな共同体に反するような行為を平気で行う人間がいる。これについては給料をもらわないと生活できない、嫌でも我慢してやっていくしかないというへりくだった考えで日々、精神をすり減らしている人もいることでしょう。

しかし、これは大きな共同体感覚で見れば間違ったことなのです。あなたはその会社に所属することで人間らしく扱われない、そのような目に遭う必要はまったく無いのですよ。大きくくくればどんな状況でも社会とつながっているのです。そんな会社、やめてしまってもあなたは社会から切り離された人間にはならないのですよ。

だから絶望しないでください。心が病むまでそのような理不尽な共同体に所属することはありません。無理はしなくていい。止めてしまえばいいのです。そして、再起をはかればいいのですよ。おかしなことはおかしいのです。間違っていることは間違っている。それは声に出して言うべきであり、それが大きな共同体の声ならば自信を持つべきところなのですよ。

 

「褒める・叱る」は縦の関係を作る 

  • 課題を分離し、対人関係において互いに協調し、協力し合うためには「横の関係」が大事
  • 親子関係においてもそれは言える
  • 子供や部下の育成方法において「褒める・叱る」2通りあるが、どちらもアドラーは否定する
  • 褒めることも叱ることも、対人関係において相手を上から見ていることになる
  • つまり、相手を操作するのが目的なのだ
  • 褒めてはいけないし、叱ってもいけない
  • 相手と自分は立場は違えど、同じ人間なのである。ここをはき違えてはいけない

 

「ほめるという行為には、能力のある人が能力のない人に下す評価という側面がある」

 

 

今まで散々、子供や部下を褒めちぎってきた人は、これを聞いてたいそう驚くに違いありません。人によっては憤慨するかもしれない。だって、今まで自分の行ってきたことを、こうも真っ向から否定されるのですからね。

でも、考えてみればわかる話でしょう。自分が叱られた時は当然として、褒められた時にはどこかくすぐったいというか、不快感のようなものを感じることはありませんか?それが相手によって変わるのだとしたら、それも対人関係において縦の関係を作り出していることに他ならず。残念ながらアドラーがいうところの共同体感覚までの道のりは、まだまだ遠そうですね。

ここで疑問に思われるであろう「じゃあ、どうすれば良いというのか?」という問いに対しても、アドラーは答えを用意しています。

 

「勇気づけ」を行え

  • 対人関係を縦にとらえるから、相手に介入してしまうのである。自分より低く見ていないか?
  • 横の関係を築くことができたなら、介入など、しなくなるのだ
  • 困っている人を見離せと言っているわけではない、それに対して援助することは必要だ
  • だが、それに対する最終的な責任を負うのは本人であり、あなたの課題ではない
  • こうした横の関係に基づく援助をアドラー心理学では「勇気づけ」と呼ぶ

 

困り果てた人を放置するは非情です。親子関係でいえば育児放棄ですし、仕事でいえば責任放棄ともいえるでしょう。しかし、アドラーはそんなことを推奨していない。援助はすべきであると言っているのです。

「あれをしなさい」「これをしなさい」これは介入です。本人の責任の所在を曖昧にし、勇気ある全身を妨げる越権行為でしょう。そうじゃなくて、親であれば資金面であるとか、部下であれば技術を教えるであるとか、そのような援助はしてもかまわない。ただ、頑張るのは本人なのです。誰かにやらされているようでは、どのような結果にしろ「本人にとって」結実しないということになる。

 

他者を評価しない「ありがとう」の言葉

 

「人はほめられることによって、自分には能力がないという信念を形成する」

 

  • 能力のある人が能力のない人に下すのが「ほめる」であることから、上記は自明と言えよう
  • いちばん大切なのは他者を評価しないことだ
  • 褒めるも叱るも他者への評価にほかならぬ
  • 一方、「ありがとう」という言葉は評価ではなく、もっとも単純な感謝を示す言葉
  • 人は感謝の言葉を聞いたとき、自らが他者に貢献できたことを知る
  • アドラー曰く「人は、自分には価値があると思えた時にだけ、勇気を持てる」

 

「人は、自分が共同体にとって有益なのだと思えた時にこそ、自らの価値を実感できる」

 

  • 他者から「良い」と評価されるのではなく、自らの主観によって他者貢献を実感することこそが重要である

 

褒める、叱るは縦を生む。ありがとうは、純粋な感謝の言葉。もちろん、気持ちが伴っていなければ形骸的なものになってしまうのでしょうけども。

さて、以上のことを見てもまだ、誰かを褒めたり叱ったりしようという気持ちになりますか?誰かの課題に「こうしろああしろ」と介入する気持ちになれますか?そのような行為がいかに尊大で身の程知らずだったかを、噛みしめると良いでしょう。

褒めるでも叱るでもなく、勇気づけのアプローチによって横の関係を築き、感謝されるような共同体へのコミットを実践して生きる。理想的ですが、簡単なことではありませんね。しかしながらこのような基礎的な心構えを持つことにより、徐々に身に着けていくことは可能だと考えます。

対人関係においては縦を作り出さぬよう、相手を一人の人間として並列で見ることのできるよう、生きたいものです。

 

ここに存在しているだけで価値があるということ

人は他者の「評価」で自分を見失ったり、また、無意識のうちに他者を「評価」します。例えば引きこもりで仕事もせずに毎日を生きている人間がいたとしましょう。あなたはこの人に、どんなイメージを持ちますか。ごくつぶし、社会にお荷物。このように捉えてしまうかもしれません。ですが、そうではない。その人は、そこに存在するだけで社会と繋がっている、価値がある。このように見ることを教えるのがアドラー心理学です。他者は「評価」してはいけない、「存在」そのものを見ようというのです。中々難しい話ではありますがね。

書中ではこのような引き合いを出しています。母親が交通事故で意識不明の重体となった時に、それでも一命をとりとめた時、どのように思うか。母親が何をしたか「行為」で物事を考える人はいないでしょう。命が助かっただけでもありがたい、このように思うのではありませんか。これが「存在」を見るということなのです。 

難しいですよね、不慮の事故に巻き込まれた人に対する憐みの気持ちもあるでしょうし、かたや頑健であるにも関わらず働かない人も「存在」そのものを認めろというのですから、すんなり納得のいく話ではないと思います。ですが、「いてくれるだけでも有り難い」最終的にはここに帰結していくべきだとアドラーは申すのですよ。

そのような「存在」に対しいて「ありがとう」という気持ちがあれば、それを言葉にして伝えてあげればいい。そうすることで、その人が行動を起こすきっかけにもなるかもしれません。いつまでも「お前はなんて駄目なやつなんだ!」なんて罵り続けても、事態は好転しませんよね、確かに。

このように非常に難しい「隣人愛」のような、まさに神の如き愛情を他者へ注げという理論を受け入れられる人は少なく、この概念を提唱したアドラーに対して疑問を投げかけた方もいたそうです。それに対してアドラーが答えた内容はこうです。

「誰かがこれを始めなければ始まらない。他人がやらぬとしても、そんなことは関係ない。あなたが始めるべきではないだろうか」と。

まさに勇気の心理学ですね。しかし、ここが真理なのかもしれません。僕もこれを見た時は「なるほど」と思わされました。自分が始めればいいんだなって。もう究極ですよね...

 

対等の関係を築くこと

自分が社会と繋がっている、共同体感覚を持つには、相手に関わらず「横の関係を作ること」から始めなければならないと説きます。相手が誰であれ、です。相対的に見て優秀であるとか劣等であるとか、そのようなことは無関係に「対等に」関係を築くべきだと。

では社長と新人でもなれなれしく接して良いのかだとか、そのように考えるのは飛躍だそうです。そうではなくて、社長も新人も同じ「人間」である、ということを忘れてはいけない。間違ったことは間違っている、このことを曲げられるものではないということです。職責を壊すようなことをするわけではないのですね。

相手に対して顔を使い分けている人は、あらゆる対人関係で「縦」の関係を作り出している証拠なのだそうですよ。そうではなくて、本来は誰に対しても変わらぬ接し方、横の関係を築くべきなのですね。

大変難しいですね。僕らは仮面をかぶって社会の中で生きています。中には常に対応の変わらぬ方もいますが、そのよな存在は稀有でしょう。やっぱり、場面に応じて顔を変えている。でも、それが職責であるとかシステムを上手く回すための方法でない限り、人間の尊厳を捨ててまで振る舞う必要もないということですね。願わくばこのように振る舞って生きていきたいです。

僕も確実に相手に応じて態度を変えてしまっていて、アドラーを読んでからはそんな自分はいかがなものかと思いました。誰であろうと同じ人間なのに、それに上も下もないのにね。これからはフラットな関係を築いていきたいです。難しいですけどね。

 

共同体感覚を持つには自己受容・他者信頼・他者貢献が不可欠

自己受容

これは「自分はここにいても良いんだ」という、ありのままの自分を受け入れる力です。ここで自己肯定と自己受容との違いについて説明しておきますと、自己肯定は「自分は何だってできる、今回の失敗だって偶然だ!」というもの。これは優越コンプレックスをもたらし、自分以上の価値を周りに示そうとしてしまう危険性があります。対して自己肯定は「これもまた自分の実力だ。それならば次はこんな工夫を凝らしてみよう」と今の自分の力を受け入れること。この「自己受容」が必要だと説きます。

他者信頼

次に「信用」と「信頼」の違いについて説明します。「信用」というのは銀行の取引と同じように、何かを担保にして「条件付きで」何かを信じるということ。対して「信頼」というのは無条件で信じることを指します。つまり「他者信頼」というのは無条件で他者を信頼せよということなのです。

率直に申せば、これは愚かなことだと映るでしょう。誰かに騙されてもなお、それを信頼せよというのですからね。しかしアドラーはこう言います。信用の反対は懐疑である、そのような気持ちで他者と接していては、相手にもそれが伝わって、自分も信頼されない。騙されることはあるし、その悲しみについては大いに悲しむと良い。しかし騙す行為については自分の課題ではなく相手の課題である。他者を無条件に信頼して関係を築くことこそが深い人間関係を築けるのだ、と。自分に変えられぬものは変えようとせず、変えられるものについては勇気をもって変え、それらを見分ける力を持て、このようにもおっしゃってます。

他者貢献

代表的なものでいえば仕事です。お金を得るために働くというのもまた事実ですが、世の中の富豪の多くは、お金を持ってしてもなお仕事に打ち込むことが多い。これは仕事をすることで他者に貢献していることを実感するためなのですね。この他者貢献を持って社会との繋がり、居場所を感じるのが人間であります。

 

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アドラー心理学を本当の意味で理解し、生き方を変えるには生きてきた人生の半分の時間が必要だそうです。僕でいえば1人の人間が成人するくらいまでの時間を要すのです。それだけ難しい学問なのですね。

ですが、今この学問に出会えて本当に良かったと感じております。理屈で解ってても「難しい」と心底感じるのは事実ですが、いつか人生を変えるような飲み込みをして、ともに歩んでみたいなと感じました。

 

キーネーシスとエネルゲイア

ギリシャ哲学のアリストテレスが提唱した運動に関する概念。キーネーシスは運動を線で捉える、つまりは始点と終点が存在します。エネルゲイアは運動を点でとらえる、つまりはその瞬間にも意味があるという考え方。

人生とはエネルゲイアであります。何か目標に向かって進み、そこに到達できなければ過程は意味をなさなくなる、これは違います。今、この瞬間を生きること、これに意味があるというのです。

 

たとえ話

山登りで考えてみましょう。山頂を目指して登っていく過程で、もし辿り着けなかったとしたらそれは挫折でしょうか?確かに、目標は山頂への到達だったかもしれない。ですが、たとい辿り着かなかったとしても登っていた瞬間瞬間こそは本物であったのです。一生懸命に登ることに打ち込んでいるその瞬間こそがまさに人生と言えます。

旅はどうでしょう。家を出て、目的地へ向かう。その道中でアクシデントがあり、辿り着くことができなかった。これは旅とは言えませんか?そんなことはありません、あなたは旅へ出ようと決心した瞬間から旅をしているのです。その一歩一歩が旅であった。そう考えられはしませんか。

生についてもそう。人間の目的地とはどこですかね。社会的な地位を確立すること?お金持ちになること?何をもって目的地へ到達したと言えるのでしょうか。結論から言うと、人生に目的などありません。その瞬間、瞬間こそがまさに点であり目的であるのです。

 

過去や未来に逡巡する必要はない

過去に何があろうと、未来にどんな困難が待ち受けていようと、今ここを全力で生きることこそが嘘をつかない人生です。過去や未来を理由に今を頑張らない人は、自分の人生に大きな嘘をついている。辛かった過去や不安な未来は否定しませんが、ここで頑張らない正当な要因にはなりえないのです。勇気がない証拠です。

一生懸命に生きている人を見て、白々しくなりますか?どうせ未来なんてないのに馬鹿だなぁ、なんて思いますか?馬鹿なのはあなたのほうです。今に打ち込んでいる人は、その瞬間こそが人生であることを悟っているのですよ。

 

人生の目標

アドラーは人生における目印を設けるように言いました。それは旅人が北極星を頼りに進むかのごとし。具体的には「他者貢献」だそうです。社会のために何らかの形で貢献しよう、このような気持ちを持っていれば迷うことはないと述べました。

お金を寄付するだとか、ゴミを拾うだとか。そういった目に見える形も貢献ですが、主観的な「貢献感」を持てればそれでよい、とも言ってますよ。「自分は存在するだけで社会に貢献している」このように「感じる」ことができればそれでよい、というのですね。これは居直りでもなんでもなく、大真面目な話だそうです。

かつて2chのコピペでこんなものがありました、「僕が働かないことで、誰かが働くことができる」云々のくだりですね。これは意外と的を得ていますね、実はこれも「貢献感」の一種と言えるのでしょうから。ただ、これを理由に今そこを頑張らぬ理由にはなりませんがね。ここははき違えたくありません。

 

幸福とは貢献感である

はっきりと定義しています。先述の通り、主観的な感覚である「貢献感」さえ持てれば、人は幸福になれる。今ここにいるだけで誰かの役に立っていると「思えれば」全ての人間は幸福になれるといいます。

どうですか、できそうですか?今の仕事をなんらかの事情でやめたり、大病を患って床に伏したり、自分がどんな状況になっても、「存在するだけで何かの役に立っているんだ」って思えますか?

簡単なことではありませんよね、だからこそ不幸だ不幸だと嘆く人間が世の中には溢れかえっているのでしょうから。 

 

松岡修造さんを思い出します

「過去のことを思っちゃダメ、未来のことを思っちゃダメ、今ここを生きていけばみんな生き生きするぞ!」

面白MAD動画でこれを観た時は笑い転げた記憶がありますが、驚きましたね、まったく同じことを言っている。彼はアドラー心理学を学んだのでしょうか、それとも今その瞬間を全力で打ち込んできた人生経験からそのような言葉が出てきたのでしょうか。不思議です。著名な方ではありますが、是非ともいちど、アドラーを学んだことがあるかどうか聞いてみたいところです。彼の言うことは、アドラー的にはまさに理想です。今ここを生きる。大切なことですね。

 

以上、アドラーシリーズ終了です。

嫌われる勇気の続編、『幸せになる勇気』

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