羆の人生記

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気遣いや挨拶に見返りを求めるな

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誰かに何かを勧めたり、気遣いをするのは素敵なことだと思う。自分が相手にとって良かれとやったことなんだから、それをすること自体が美徳であり、善行に値する。ただ、この勧めや気遣いに対して「見返り」を求めると途端に生きづらくなることに気を付けなければいけない。

 

例えばの話。車を運転していて、別の車に道を譲ったとする。そこで相手の運転手が一礼などのお返しをしてくれると、つい嬉しくなってしまうもの。だが、こちらの善意を一顧だにせず、さも当然、とばかりに過ぎ去ってしまう様を見て、つい気をもんでしまうことはないだろうか。日常で運転する人ならば一度は経験していることだ。

 

これで「なんだ、あのやろう!」とか、「もう二度と道は譲らない!」と憤慨して、果たして今後の人生に何らかの益はあるか。いやないだろう。むしろ、運転が荒くなったりして、ほかの誰かを傷つけてしまうかもしれない。事故を起こして自分を傷つけてしまうかもしれない。それよりなにより毀損の大なる部分は精神的なものではないか。

 

もし、相手がお礼をしないことを分かっていたら、あなたは道を譲らなかっただろうか。もしかすると、譲らなかったかもしれない。けれど、それでも、心のどこかに返戻を求めない純粋な親切心で譲った面は少なからずあったはず。その清らかな部分を覆して、相手が返戻をしなかったことに憤慨し、精神を曇らせてしまうということこそが、日常で生きる上での大きな精神的損失にほかならない。

 

 

「『コーヒー飲む?』って聞かれた時にナチュラルに『いや、いい』と答える人は"周り"がしんどい思いをする」という話に共感する人たち - Togetter

返礼ありきの気遣いしてる時点で生きづらいよ。そんなもん、掛け捨てだと思おう。

2021/01/31 20:59

 

こちらのエントリーでは、コーヒーを勧められた相手が「いや、いい」と答えたことに憤慨している様を、皆で賛否両論、意見を交わしているものだ。これに対する僕の考えはブックマークコメントに書いたとおりだし、当エントリの記事タイトルにもはっきりと書いている。

 

あけすけに言わせてもらえば、コーヒーを勧めた相手の返答によって心を乱すあなたこそ生きづらい認知をしているのは間違いない。「いや、いい」と答える人の周りが生きづらいよね、という意見は自分の本心を隠す蓑である。はっきり言えばいいものを、「気に入らねえな、その言い方」と。ただ、こうして竹を割ったように所感を述べたところで、その考え方は生きづらさをはらんでいることは避けようのないことなのだけれど。

 

「いや、いい」素敵じゃないか。この、周囲におもねることを半ば強制されがちな世の中にあって、孤高というか気高さすら感じる返答。個人的には好き。アサーティブコミュニケーションなんて、誰にでもできる芸当ではない。自分ができるからといって、周囲もできると考えるのは歪んだ考え方だ。

 

ただ、言いたいことは、わからんでもない。「ありがとう、気持ちだけ受け取っておくよ」と優しく返されることを誰もが望んでいるし、自分の気持ちを踏みにじられるような返し方はしてほしくないよな。でも、それは、相手に望んではいけない。もし、そういうナイスなボールが返ってきたとすれば、そこで「ナイスピッチング!」とばかりに賛辞を送り、その幸運を喜ぶくらいでいいのである。

 

結論として、気遣いや挨拶なんぞは、掛け捨てでいい。地面に対し、芽が出るかわからんけれど、とりあえず善意の種をばら撒くのがいい。それで芽が出なくても気にしない。もし、芽が出たら、それはラッキーなのである。日常に潜む、ささやかな幸せ。それは、気遣いや挨拶という名の種を撒いた結果、思わぬ収穫があったこと。これこそが、生きやすくなる考え方なのではなかろうか。

 

大丈夫。ひたすら一方通行の善意をばら撒き続けていれば、そのうち何らかの因果で自分ににっこりと微笑みかける幸せな出来事が返ってくるはずだから。意識的に貪欲に、視野狭窄に見返りを求める生き方はやめて、ふとした嬉しいできごとに、日ごろの善意のお返しの結果を見出そう。