こんな増田がちょいバズってるのを見て思うことをつらつらと書くよ。
自分がインターネットを始めたのは、ISDNのチャット全盛期。ネットに初めて繋いだ時の緊張感・高揚感は今でも忘れられないし、全国の誰ともわからない相手とチャットをすることは、とても勇気が必要で、踏み出せばそれに耽溺するには十分な魔力を持っていた。
UOにドはまりして、ネット上でコミュニティを形成することの奇跡を体験、それで人生が変わったといっても過言じゃない。これに費やした年月は短くないけれど、結果として、自分の人生観に大きな(良い)影響を及ぼしたことを考えれば、無駄じゃなかった。
人生に行き詰まったタイミングで、ブログの存在を知って、それで救われもした。まさにここで起きたことなんだけれど。これも人生を変えた。ブログに出会っていなければ、また別の生き方になっていたことは間違いなし。
さて、ここまで垂れ流したネット遍歴なんだけど、
無名のおっさんが仕事論を偉そうに語る。
の部分にかかってくる。そのとおりで、無名のおっさんが人生論を偉そうに?語るのがこの場なのである。
インターネットというのは生きる上で主の戦場にはなりえなくて、基本的に現実世界に足を着けて、そこを補強するという意味で存在している、ととらえている。もちろん、現実世界で何らかの障害があって、どうしてもインターネットでしか生きられない人もいるし、それを否定するものじゃないのだけれど。(こういうこと書くとSAOのユウキを連想する)少なくとも自分にとって、インターネットは添え物であり、現実世界のサポーター。けど、外したら生きるのがままならなくなる、両輪の関係ととらえてどちらも大切にしたいと考えている。
ただ、どうしても、世間は現実世界を軸に動いている。田舎になればなるほど、そういう傾向がある。だから、ネットで生きていますって公言しにくいところはあるし、なかんか認められるのが難しい。現実世界で賞賛を浴びている人は胸を張り、インターネットで賞賛を浴びている人は息を潜めることも時に必要というのが、実際のところを表している。
胡蝶の夢ではないけれども、夢で生きるにはあまりにも実感が湧きづらいのが今の世の中。現実世界のほうが、ずっと手ごたえを感じるし理解を得やすい。時には蝶になって、あるいは完全な蝶として墓場まで行ける世界があるとするならば、それは紛うことなきユートピアなのだろうと思う。そんな時代が、生きているうちに到来するかは、知らん。ただ、3億円あればやれるなぁって、人並みに妄想することはします。
話が脱線しまくっているけれど、増田のような人は、インターネットに楽しみを見出していて、増田なりの文脈があったのだと思う。全盛期はそれに沿った形でネットは展開していたし、人生の糧になっていたかも。ただ、増田が変わったのか、ネットが変わったのか、それはわからないけれど、少なくとも今のインターネットは楽しくない、と。そういうことなんだろう。とどのつまり、変化には抗えなくて、楽しい時期なんてのは静止画にして永久保存したところでそれを動画としては楽しめないわけで、時間が動いている以上は変化に逆らうことができないから。もし、変化する自分やネットでマイナスの効果を心に生じてしまうようなら、そもそもとして「万物は絶えず変化する」という認知を形成して、受け入れて生きるのがいいんじゃない。今のインターネットに失望することもまた、生きる上での必要な感情なのかもしれないけれど。
おわり。