羆の人生記

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ニーバーの祈り…変えられるもの変えられぬもの、それを識別する知識

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祈り

みなさん、ニーバーの祈りって知ってますか?

今回はそれを紹介します。

ニーバーの祈り 

ニーバーの祈り(ニーバーのいのり、英語:Serenity Prayer)は、アメリカの神学者ラインホルド・ニーバーが作者であるとされる、当初、無題だった祈りの言葉の通称。serenityの日本語の訳語から「平静の祈り」、「静穏の祈り」とも呼称される。

ニーバーの祈り - Wikipedia

この『ニーバーの祈り』は、アルコホーリクスアノニマス(AA)など依存症患者同士の自助グループによって採用され、広く世間に知られることとなったそうです。その言葉は以下の通り(和訳)。

 

神よ

 

変えることのできるものについて、 それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。

 

変えることのできないものについては、 それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。

 

そして、 変えることのできるものと、変えることのできないものとを、 識別する知恵を与えたまえ。

 

ニーバーの祈り - Wikipedia

 

ここからは僕の感じたことを僕の言葉で書いていきます。

 

変えられるもの、変えられぬもの、識別する知識

変えられるもの

これは「今、ここで自分ができること」だと考えます。誰かを変えるでもなく、何かを変えるでもない。自分ができることを精いっぱいやる。それが変えられるもの、つまりは自分だということですね。

 

家を掃除するにしても、運動するにしても、勉強するにしても。「さて、やるぞ、今できることをするぞ!」といって行動を起こすことそのものが変えられる自分なのではありませんかね。

 

そのような行動を起こさせるのは親でも教師でもありません、あなたのその内なる自分なのですよ。

 

変えられぬもの

Aさんに悪口を言われた。Bさんに嫌がらせを受けた。

 

ではどうする?Aさんを黙らせる?Bさんに復讐する?

 

これらの行動は「相手を変えようとする」ことに他なりません、自分以外の誰かに振り回されているのです。それは「変えられぬもの」であり、それを変えようとしても「変えることができない」わけですから、そのエネルギーは徒労に終わってしまうでしょう。

 

ではこれらにできることは何だろうかと考えると...

 

できることとすれば「自分はそれらに対してどうあるか」なのだと思います。「悪口なんて気にしない」または「その中でも自分の気づきを与えてくれるものがある」と思えれば良し、「嫌がらせにははっきりと『嫌だ』と言おう」または「自分にも非がなかったかの点検をしてみよう」このように事を起こしても良いかもしれない、受け入れるだけの冷静さを持てると良い。

 

それに...相手を変えるよりも、自分が変わればよい。これは「変えられぬもの」に共通しますね。

 

識別する知識

変えることができるものを変える勇気、変えられぬものを受け入れる冷静さを持って人生を歩んでいきたいと思う頭の傍らで浮かんでくるのは「それらを見分ける力」でしょうね。

 

変えられるものと、変えられないもの・・・

 

例えば一見、変えられるものだと考えていたものも、実は変えることができないものだったり。逆にそれは変えられない!と思い込んでいても、実は自分で変えられるものだった。これらを見分けるのはひとえに「知識」なのでしょう。これを得るためには書物や他人の追体験はもとより、自省を伴った実経験なども大事なのでしょうね。

 

インターネットに親しむうえでも、自分に変えられるものと変えられないものを見分ける力は、やはり日頃から知識の習得を意識的に行っている者に身についていくのだおるな、という印象を受けます。

 

ーー

 

いかがでしたでしょうか、「ニーバーの祈り」。変えられぬものに腐心して頭を悩ませている人は、いまいちどそれが変えられるものかどうかを考えてみてください。楽になれるかも知れませんよ。

 

追記

ニーバーの祈り。今、改めてみても素晴らしい気付きを与えてくれる金言だと見受けます。世間で生きていると、変えられるもの、変えられぬもの、識別する知識。これが常日頃から求められる熾烈な環境下に自分が置かれているのだなと肌身で感じます。

 

さてさて、社会に出て十数年が経過しました。公私ともに抗えぬ荒波の中を必死に泳ぎ回って、今この時点での帰結点、それは「変えられるのは自分だけ」という事実です。これは本文中でも触れていますね。

 

「自分は変えられる」というのも、少々驕りの過ぎる発想かもしれません。ですが、「他人を変える」というのはそれをはるかに上回る、神をも恐れぬ冒涜的な発想だと思うのです。自分と相手は違う。相手のことなんかわかりっこありません。理解する努力は必要ですが、完全な理解に至ることはないでしょう。それなのに相手を変えようとして力づくで抗うことは苦行以外の何ものでもありません。そう考えれば、多少は曖昧な「自分」というものを、多少は変容させることができるのではないでしょうか。

 

このような議論はフワリとしていてなかなか地に足が付かないものですが、長年の内省を経て漸次的に醸成されていく内面の力だと思っています。表層的な付き合いに翻弄されることなく、適度な内なる自分との対話を重ね、試練に耐えつつ前に進んでいきたい。そのような人生を望みます

 

 

 

 

 

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