羆の人生記

雑記ブログの育て方をメインコンテンツに、時事オピニオンや書評などを日々更新中です。

Facebookが好きじゃない理由と匿名ブログの魅力

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ポジ熊です。

ブロガー諸氏に質問。

皆さんは匿名でブログを書いてますか?

それともリアル家族知人友人同僚にブログのことを告げてますか?

ハンドルネームだから匿名、というニュアンスではなく、ブログの存在自体を実社会の人間に紐づけしている?ということです。

僕はねぇ。リアルで知っているのは片手でおさまるくらいしかいない。実質、匿名でやってます。でも、本当に良かったよ、匿名でやってて。ここらへんを語ります。

Facebookと僕

Facebookが好きじゃない。

他のユーザーを否定するわけじゃないです、ただあのシステムがどうにも馴染まなくて、個人的に駄目だったというお話をここでしたい。

あれって基本、実名登録ありきじゃないですか?僕もね、流行りだした当初に何も考えず実名紐づけで利用開始したんですよ。へー、こんなもんか、という印象。

触る頻度は少なめだけど、「Facebook見た?」とコミュニケーションとってくる人があまりにも多いのでタイムラインは半ば義務的にチェックしながら惰性で利用を続けていたんですよね。

そのうち、違和感がぬぐえなくなってきました。

周りで利用している人が投稿する記事?が流れてくるのを見つめてたら、だんだん気持ちが悪くなってきて。

「〇〇にランチにきてます♪」角度も採光もばっちりの色とりどりの料理。

「息子が〇〇できるようになった!(ウォー!)」・・・誰?小さな子供が何かを達成したかのような写真。

なんだこの世界は?

社会で折り合いを付けながら、仕事を終えて家に帰り、そこで会社とは位相の違う場所で息抜きしたりストレス解消したりして、また元気に職場へ出てくるのが普通じゃないの?

どうして、SNSなんかで自分のプライベートを露出させるのだろうか。しかも、前向きなもの(自慢)ばかりを。こんなことをして、いつ心の整理をするのだろう。孤独な時間は必要ないのか?

これではまるで「天国」ではないか。ずーっと地続きの、一面しかない世界。裏がない。コインには裏と表があるじゃない。でも、この世界は違う、平坦で同じ価値観が広がってる。真理の逆、悪夢が現実化したような・・・

一石を投じてやろうと思いました。

煌びやかに華やかに、いかに他人からよく見られるかを最大限に意識した、マジョリティが彷徨う虚構の天国に、僕はアンチテーゼを投げかけることにしたのです。ほかの誰にも話したことのない、個人的な趣味のこと。100人中2~3人しか知らないような、ネットではメジャーだけどリアルではマニアックなその趣味をFacebookに投稿したんですね。

「〇〇が好きです!」写真付きー

やってやった。どうだみたか、戦慄したか。自分の好きなことを好き、と正直に言えないこの世界に波紋を広げたる!

結果、どうだったか。「いいね=0」を記録しました。フォロワーが100近くいるにも関わらずです。「なるほど、ここに僕の居場所はない」そう確信しました。

開示した趣味がリアルの繋がりでは理解されない、ということを端的に示した些末な出来事だった、といえばそれまでです。たしかにそうですよ、それは認めます。でもね、僕はここにほかの何かを感じ取りました、それは大衆が称賛するような、自慢になるようなコンテンツしかここでは求められていないんじゃないか?ということです。ネガティブな発言の許されない、讃美歌を奏でぬ者は排斥されるような、そんなオーラを感じ取ったのです。

これが前提にあるとして、それをもってリアルのコミュニケーションに必須のツールと位置付けられているとしたら、まぁ地獄ですよ。常に自慢してなきゃいけない、皆が羨むような私生活を送って、それを記録してなきゃいけないわけですから。こんな世界とは距離を置いたほうが賢明だ、本能はそう告げてました。

もともと、先輩が後輩を日付が変わるまで飲みに連れまわしたり、理屈では説明できないマウンティングをかましまくるリアルの人間関係に辟易してたのもありましたし、これはちょうどいい機会だ、と。すっぱりとFacebook辞めちゃったんですよね。人間関係が煩わしくなっちゃった。それ以降は、僕のところに声をかけてくれる人としか交流を持ってません。随分と楽になりました。

以上がFacebookと管理人の顛末です。かなり怨嗟も含んじゃって見苦しかったかもしれませんが、この気持ちはいくらか伝わったのではないかなと。

匿名ブログの魅力

ここまで語れば、匿名でブログを書く魅力は自ずと見えてくるはず。さきほどのFacebookについての違和感を反転させればよいのです。

好きなことを鷹揚に書ける、誰に気兼ねするでもなく、思ったことを素直に表現できるこの気持ちよさは、何にもかえがたい喜びです。恋人?車?そんなもん吹っ飛ばすくらいの魅力が匿名ブログにはあります。

内弁慶的な喜びとはちょっと違うかもしれません。リアルであった嫌なことを、愚痴も含めて延々と書くわけじゃないですからね。そうじゃなくて、ここは折り合いをつける必要のない、裸の自分でいられる唯一無二のフィールドなんです。

無理やり現実世界で例えるならば、出自などを明かさずに、秘密厳守を前提として同じ趣味について夜な夜な語り明かすサークルがあるとすれば、まさにそんな感じ。そこでは本当の自分でいられる。

もし、この場所を家族友人知人同僚が知ったとすれば、その日のうちに僕はサイトを閉鎖するでしょう。一気に陳腐化します。へたすりゃ、リアルで行った羨ましがられる観光地や食べたランチの話題などに終始するかもしれません。現時点での折り合いの付け方からすると、そうなるでしょう。

いや、もしかすると開き直るかもしれません。仕事も辞めて転居して、行く先もわからずにさせて好きなことを好き放題書くかもしれない。でも、これは冷静に考えるとなしですね。自分の親やお世話になった人を著しく傷つけてしまうかもしれない。

畢竟、リアルの自分というのは、それだけで独立した存在で周りのパーソンに認知されているのです。

Facebookってのはリアルな自分を引き立たせるためのツールなのだと思います。もし、ブログの世界を知らなくてリアル一本で承認欲求などを満たさねばならなくなったとしたら・・・ここまでFacebookに嫌悪感を示してなかったかもしれません。自分もマジョリティと同様に、美味しいもの食べる前にカシャリと写メしてそれをドヤ顔でタイムラインに放出させて心の満足を得ていたかもしれない。こう考えると、現在進行形でFacebookでキラキラしている、ブログに縁のない人たちを揶揄することはできないのかもしれません。

社会的包摂の一翼を担う

リアルでドロップした人でも、ブログでは同じ境遇の人同士と繋がって、自分の存在を確かめることができます。実社会では躓いたわけです。では、SNSがリアルとつながっていてその人の救いのツールになるのかといえば、なりにくいのではないかと思うのですね。

ならないわけじゃないんですけど、気持ちの問題です。今まで散々蔑まれて排除されてきてリアルに愛想つかしているのに、それをベースにして自己開示して居場所を探すというのは現実的じゃない気がするんですよね。ここまでのタフさがあれば、そもそもドロップしてないでしょうし。

例えるならば僕が辟易している集団から離れて新たな場所を見出そうとする際に、その集団が利用しているSNSをベースにして活動を開始するようなもんです。しがらみだらけで、やりにくいったらありゃしませんよ。全員ブロックしたって、その発言はダダ漏れなわけですから。

ブログは独立させておくのです。これが心の救いになる、危機分散にもなります。会社で躓いて離脱を余儀なくされたとしても、もう一つの世界がありますからね。自分は死なないんです。「地下に潜る」という表現がパッとくるかもしれない。「地下」というのはブログ様に対して失礼かもしれませんが、リアルに対となる概念として話をするのであれば・・・なので許していただきましょう。個人的にブログは光り輝く世界だと思ってます。

インターネットも社会なんです。実名を出さなくても、アバター「ポジ熊」は生きている。インターネット社会に包摂され、生かされた存在。心の拠り所です。ここがあれば、どんなに辛いことがあっても生きていくことができるとさえ思えます。極度な依存は危険ですし、当たり前のように存在している場所ではありませんけど。これくらいに有難いものだと感じているのです。ブログは社会的包摂の一手段として立派な存在感を示してます。

アバターはスタンド

『ジョジョの奇妙な冒険』、ご存知ですか?(リンク先はWikipedia)

荒木飛呂彦氏が描く、大人気のファンタジー漫画に出てくる「スタンド」というものがありまして、それは自分の隠れた能力が顕在化して現実となり、個々に魅力的な技を持っています。その姿形は様々。普段はリアルの肉体(魂)に内在していて見えません。スタンド能力を持っていない一般ピープルにも、スタンドは見えません。

僕はね、ブログのアバターはスタンドだと感じてます。各ブロガーはスタンドを魂に宿しているのですよ。それは一般人には見えません、しかしブログをやっている人間には見ることができます。そういう、理解はされないけど、確実にあって、少数のわかる人にだけはわかる、そういうものなのだと思います。

で、スタンドは嘘をつきません(つきたがりません)。自分に対しても、読者に対してもです。素直に自分を表現するもの。だから、偽ると苦しい思いをするのです。それが普段、ブログを書いていてどこか苦しいな、と感じる一因でしょう。書きたいことを書いてない。自分のスタンドが、悲鳴を上げながら巧言令色する、それで仁を減らすのです。これは良くない傾向で、はやいこと修正してあげないとどんどんカルマが蓄積して魂が濁るのです。ブログは素直に書くことを推奨します。

危ない薬を決めてキーボードを叩いているわけじゃなくて、ブログってのは「スタンド」のイメージを投影しやすいと本気で考えているのです。だから飛躍的ですが比喩に出させていただいた。バレちゃうとダメなんです、スタンドは。ブロガー同士、能力者同士で切磋琢磨し通じ合い、楽しむのは大いにアリなんです。でも、社会生活で折り合いをつけている一般の人々には、決して知られてはいけない。知られると「スタンド能力を失うことになる」のです。

おわりに

リアルと紐づけしているブロガーさんは大勢います。そのなかで自分の書きたいことを素直に表現し、多くの耳目を集めている方も少なからず存在している。これは凄いことです、リスペクトに値します。僕にはこれはできない。リアルはリアルで地味なパーソンとして独立していて、心地よい。その境界線が崩されてしまうとブログのアバターは死んでしまう。とてもなじゃいが真似できないです。

うーん、そうですねぇ、もしサラリーマンを辞めて生きていくとしたら、もうすこし境界線は曖昧になるかもしれませんね。実生活のネタを具体的に織り交ぜることができるようになると思います(記事ネタは今までの10倍増えそう)。

雇われで立ち回らなければ生きていけない私的事情も、匿名ブロガーにこだわる大きな要因となっているのでしょう。でもね、今の立場も嫌いじゃないです。「へー、ブログですか。」なんて全く知らない涼しい顔をしながら、その背後にはズギューンってな具合にスタンドがちらついているというのも、秘密を持った一般人という感じであながち悪いものではないのですよ。この感覚、わかってもらえるかなー。

 

www.pojihiguma.com

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書きたいことがかけなくなっちゃった人は、ここらへんの記事を参考にしてね☆

 

「匿名」とはいっても、ネット上では人格が生成されるのだから、本当の意味の匿名はアノニマスダイアリー(通称増田)とかなんだろうなぁ。

どこか漠然とした概念よねぇ。