ポジ熊の人生記

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自分のためより誰かのために行動するほうが幸せ感ある

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最近読んだ本の中で

お金を渡して自分のために使わせたグループと誰かのために使わせたグループとで幸福度を比較したところ後者が有意に高かった

的な記述を見て「あー、わかる」となった。

自分のため

  • 欲しいものを買う
  • 好きなことをする

など。自分のためにすることの一例。あまり具体例が思い浮かばない。

こういうのって、瞬間的には満足度が高いんだけど、結局はいまいち満足できない。というか、満足度が持続しない。

お気に入りの服を買ったとして、身にまとった瞬間や初めてそれを着て外出する際はドーパミンが放出されて幸福感に包まれる。けど、それもわずかな間だけ。すぐに慣れてしまう。

 

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過去にこんな記事をUPしたけど、想像でも自分の幸福が思い浮かばないのと関連があるのかもしれない。

常日頃、食べたいものや欲しいもので頭の中が満たされていれば、こんなことにはならないんだけど。

 

無趣味な人は、こういう傾向、あるんじゃない?

自分のために好きなことで時間を目いっぱい使えない人。僕はそのパターンなのね。

 

誰かのため

  • 子供のため
  • 元嫁のため
  • 職場の人のため
  • 友人のため
  • 隣人のため
  • 町内の人のため
  • 見知らぬ誰かのため

に行動を起こすエネルギーというのは、自分のためのエネルギーと比べて大きく感じる・・・人いませんか?

自分のためにやったことは、刹那的な幸福で終わるけれども、誰かのやめにやったことって、幸せな感覚の持続が長い気がする。それに、虚しさも感じにくい。

自分のためならここまでやらん、ってことも誰かのためなら一手間二手間かけてまでやっちゃうんですよね。不思議。

 

仮説

自分のためってのは、限界あるんすよ。伸びしろが限られている。どんなに自己投資したところで、結局は社会に所属している歯車の一つであることに変わりなし。じゃー自分を歯車だとして、そのギヤの角をほかのギヤと接触しやすくする、あるいはほかのギヤに油を指すことで結果的に社会全体が上手く回り始めて、総幸福エネルギーが増す。こう考えると自分に投資するよりも回りに投資する方が幸福生産の効率が上がるんじゃね?って感じている説。んまぁ一言では集団の繁栄を願っての行為といったところ。

社会に所属して包摂されているからこそ、その社会に何らかの恩寵をもたらすべく、周囲に役に立つ行動へのエネルギーを高めて社会への恩返しをしている説。これは親への恩や職場への恩も含まれます。

自分、という独立した概念はなく、あくまでも共同体の一部として機能していることを本能的に悟り、自分だけを研ぎ澄ますよりも周囲にエネルギーを分け与えて共同体そのものの発展を願っている説。アドラーの共同体意識とか抵触する概念なのかもしんない。

結局は巡り巡って自分のためにやっている説。誰かのために一生懸命やることが主観的な幸福感の充足に帰結するとすれば、結局は自分のため、ってことになるんじゃないの?という。善と偽善の境界ではないけれども、回りまわって結局は自分のためにすべてのことをやっていたー。「あの人のため」「この人のため」「世の中のため」いやいや、それより、それをすることで満たされている部分はどこ?っていうと、結局は自分の心なんじゃないの?こういう考えもあることから、僕的には善と偽善の区別はつけにくいのでは、と考えています。

 

おわりに

ま、とにかく。誰かのために頑張る方がエネルギーが湧き起こることは事実です。ほんと、不思議なんですけどね。10代や20代ではあまり考えなかったことが、30代になって起きてくる。

これは誰でも通る道かというとい、どうもそんなことはないようです。職場の30代~50代の方々を見る限り、自分のためにギラついた行動を起こしている方も少なくありません。

おのずとそういう人は好かれないんですよね。そうじゃなくて、いつも誰かのことを考えていて、一生懸命な人に、人は惹きつけられていく。

そりゃ、そうですよね。優しくとも厳しくとも、その人が自己中心的なのか、それとも誰かのために考えて行動を起こす人なのか。この差は大きいと思いますよ。信頼や尊敬といった意味では。

 

自分も、今はその道に足を一歩踏み入れた感があるので、嬉しいです。人としての成長を、それなりに踏めているのかな、と。自分の利益だけで周りを犠牲にしたり疲弊させたりするようなパーソナリティにならなくて、本当に良かった。運が良い、とも言えますね。

 

でも、手放しに仏のような尽くす人間になれている、とは思いませんよ。誰かのため、とは言ってもやはり過剰な要求には辟易してしまいますし、理不尽な要求に対しては怒りを感じる事もあります。都合のいい人、にならないためにも、自分がどれほど人のために動けるのかのエネルギー残量をしっかりと把握しながら、明日も誰かのために生きていこうと考える次第です。