羆の人生記

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「反省させると犯罪者になります」の感想

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岡本茂樹著「反省をさせると犯罪者になります」を読了しての感想をば。

読後の感想

読んでよかった、というか自分の考えに合った本を読み終わったから「読んでよかった」という一種バイアス的なものも多分にあろうかとは思うけど、一気に読み終われる本というのはなかなか出合えないもので、そういう好みの部分を考慮しても良かったな、と。そしてブログに書いて人に勧められるなと思うので。こうしてキーボードを叩く。

 

論文や統計に基づく足のついた論説ではなく、筆者の経験談に基づくあくまでも主観をメインとした話ではあるのだけれど、それでも確固たる信念のもとで書ききったのだろうな、ということと、自分の幼少期から現在に至るまで「反省」をさせられた経験からしてうなずける部分はかなりあったように思える。 

 

反省はよくない?

この本が伝えたいことは、罪を犯した人にすぐ反省をさせる、あるいは反省文を書かせることの無意味さを説いている。罪を犯した人がその罪が明るみに出た際に思うことは基本、自分のこの先の運命だとか処遇のことで、いかに自分の罪が軽くなるのかだとか、そういうことに終始してしまう。自分の犯した罪にしっかりと向き合って、本当の意味での「反省」ができるひとは皆無といってもいい、と。

 

反省文を書かせたところで、それは反省を求める人たちが満足できるような美辞麗句を連ねてその場しのぎの断罪を逃れたいがための表面的な言葉に終始してしまうものになってしまうということ。もし、それで罪を犯した人が社会的に許されたとしても、表面的な反省をすればこの社会は自分の罪を見逃してくれるんだという考えになるのであれば、あとあと大きな問題になって表出してしまうことになる。

 

だから、とりあえずの反省文などを書かせて周りの留飲を下げたところで、根本的な解決には決してならんよ?ということを述べている。

 

自分の心と向き合う必要性

じゃあどうすればいいのか、というと、罪を犯した場合にまずは罪を犯すに至った心情を吐露してもらう。それは被害者目線ではなく、加害者目線として。罪を犯した相手に対して、どのような気持ちがあったのか。それ以前に、その罪を犯すに至るプロセス、たどれるなら幼少期の両親から受けた教育の歪みであるとか、そういったことも素直に話してもらう。こうすることで、自分の気持ちと向き合って、自分の抱えていた闇に気づき、初めて自分の犯した罪と向き合って真の意味での反省に至れる、ということが書いてある。罪を犯した者に対して「お前は悪人だ、とにかく反省しろ」では臭いものにフタをしているようなもので、根本的な解決には至らないと。そういうことなんですな。

 

被害者の心情を考えてみろ、といわれても、自分の抱えている負担、黒いものを自覚せずして相手の気持ちを考えることなどはできないと。なるほどまさしくその通り、と思った。本の中では、被害者の気持ちをないがしろにするわけではない、とか、反省はしなくてもよいというわけではない、というエクスキューズも多めに盛り込まれてはいるけれど、言わんとしていることは痛いほど伝わってくるし、僕は大丈夫。揚げ足取りな人たちは、こういうことも無視して無駄に付け火をしてしまうのかもしれないけれど、書籍のコンテクストは少し読み進めれば難なく心に取り込めると思うので、素直でオープンな気持ちでこの本を読んでほしい。

 

刑務所の話

服役囚は本音を語ることを強く制限されている。普段、思っていることを素直に話そうものならば、それが反省していない言ととらえられて周りの服役囚に目をつけられたり、模範囚として認められなくなってしまうなど、娑婆の世界では当たり前のようにある同調圧力というか空気のようなものが、刑務所内にはあるようだ。筆者が提唱する「反省をさせない」更生の第一歩を阻む文化というか旧態依然とした雰囲気が、監獄内にも蔓延していることは憂慮すべきことだと思った。

 

模範囚として本音を語らずに自分を抑制し、数年ないし数十年の時を経て娑婆に戻ったとして、果たして社会の歯車にかみ合って復帰が実現するだろうか。もちろん、それはすごく難しいことだし、半分は刑務所に戻ってきてしまうのだという。こうならないためにも、服役囚には真の反省をしてもらって、罪に向き合い、誰かを頼ることを覚えて社会に復帰してもらいたいなと思う。

 

こういった本がもっともっとセンセーショナルに取り扱われて、刑務所の更生プログラムも見直されることを願ってやまないし、影響力としては大変に微々たるものだけれど、僕もこうしてブログでこの本が少しでも多くの人に読まれることを願い、社会が変革することに一縷の望みを託してつたない表現ではあるがこの本を紹介する。

 

心に響く

例えば誰かを殺した人がいて、ひたすらに反省を求められ犯した罪の深さのみをこんこんと説かれた囚人にとってみれば、それは全く心に響かない、心を閉ざしてしまって自分の犯した罪には向き合えずに服役していくことになってしまう。ところを、自分のやったことについて素直に感情を吐露し、そこで自分の内面に気づいて相手のことにも思いをはせることができるようになれば、犯した罪への贖罪の気持ちが沸き起こることと思う。

 

あとは、その服役囚が人の気持ちをわかるようになればなるほどに、誰かを殺したという事実の重さにひたすらに苦しむ人生が待っている。今までは、悪いことをしたとは思っていなかった。だから、平たく言えばふてくされていた状態。けど、自分の素直な気持ちや幼少期の悲しかった寂しかった記憶と向き合えた時からは、罪への向き合い方が変わってくる。今度は、殺した相手に対して、計り知れないほどの罪悪感と、自分の犯した罪への後悔の日々が待っている。生きれば生きるほどに、まっとうに生きるほどに、犯した罪への罪悪感は大きくなっていく。それが、真の意味での反省であり、贖罪なのだと。この本は書いている。この部分に対して心に響くものがあった。涙を流してしまった。

 

願わくば、すべての罪を犯した人たちに、この境地に至ってほしいなと。そこまで思わされた記述があった。

 

どう活かすか

自分の子供、あるいは近しい人が何等かの罪を犯した際に、自分がとるべき行動は、相手への反省の要求ではない、ということをこの本から学べた。まずは、なぜ、それをしてしまったのか。どのような気持ちがあったか。それを素直に語ってもらうのが先だと感じる。

 

きっと、様々な言い分はあると思う。罪には償いが必要だし、場合によっては司法に裁かれることも必要だろう。だが、それだけでその人が真に自分の犯した罪に対して反省できるとは到底思えない。どうしてそこまでに至ったのか。そのプロセスは生い立ちから追って話をしっかりと聞く必要がある。その人の辛かった心情にも寄り添いながら、話を遮らずに辛抱強く聞く態度が、支援者には必要なのだろうと。果たして、自分にはその器があるだろうか。少し、自信はないけれど。

 

でも、この本を読んだのと読まないのでは、対応は全然違ってくると思う。ただ、叱ればいいってもんじゃない。悪いことをしたというのは、その人なりのヘルプシグナルなのだから。なにか、辛いこと、思いを抱えて至ったことなのだからね。