羆の人生記

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本当に強い人は「自己責任論」を持っていない

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両親の反資本主義思想に影響を受けたのかもしれない。

弱者は、社会全体で包摂すべきという考えが自分の中にはあります。

生まれも育ちも人それぞれ。運の良し悪しも然り。

その中で運悪く貧困に陥った人を「自己責任」で切って捨てる態度は、いつ見てもいい気分はしない。

身の回りの人

両親は別ですが、同業者はほとんどが「自己責任」論者ばかり。 

それなりの努力をしてきた人ばかりですので、さもありなんという気持ちは確かにあります。

「どうして、ここまで体たらくで過ごしてきたのか」「もっと早期に打つ手はあったのでは」など。

筋が通っているようにも聞こえます。

運の良し悪し

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人生は、やりなおしができません。

どんな遺伝子を持とうが、どんな両親に生まれようが、どんな環境で育とうが、逆行することは不可能です。

人生は運不運ということです。

勝ち負けを決める能力も、生まれ持ったもの。

その時々でどう判断したか、というのも、「そういう判断ができた運」とも言える。誰にでもそれができて、でもしなかった、とは話が違う。そもそもできなかった、あるいは「選択する力すらなかった」可能性もあるのです。

福祉の概念が欠落

では、不運者は人として幸せに生きる権利がないのか?

「ない」と断じる人もいるでしょう。自己責任だと。

でも、そうなる道を選ばざるをえない不運は、どうやって幸運な人と均衡をはかれば良いのですか?

我らは全体で「社会」を形成しています。そこでは、自力でどうにもならない人を救済するために福祉がある。

不運者を社会全体で、福祉の力で救うことは自然の成り行きです。それを否定することは、社会を否定することに他なりません。

悪の十把一絡げ

福祉を逆手に取った悪も、もちろんあります。

こういう輩は弱者ではなく、むしろ狡猾な部類です。

それは法の下に明るみにして、然るべき司法の裁きが下るのが道理でしょう。

ですが、それと貧困者とを、どう判別するのか。

どうも、十把一絡げにしている節があるのではないでしょうか。

それぞれに、ケースをアセスメントして判断しなければ、意図的に制度を悪用しているのか、それとも真面目に生きようとしている不器用な人の困窮なのかが判別しません。

判別には煩雑で多大な労力が必要でしょう。しかし、それを省いて全ての事例に「自己責任」もしくは悪と断じてしまうと、救われるべき人も救われない。

 

どうすればシステムの悪用を防げるのか。これは門外漢ゆえに論じることは困難です。

 

ここで述べたいのは、全てのケースを「自己責任」で片づけることは、しないでほしいということです。反射的に、闇を歩く人に唾を吐きかけるのは止めてほしい。個人のレベルでも、アセスメントとまではいかなくとも、想像くらいはしてほしい。

弱き者への想像力の欠如

卑近な例ですが、仕事ができない、あるいは怪我や病気でドロップアウトした人間を「使い物にならないモヤシ野郎」と断じる光景を目の当たりにして思うことがあります。

 

それは「想像力が欠如している」ということ、そして「あなたはあの人とは違う人間なんだ」ということ。

 

たいそう、良い遺伝子をお持ちのようで。切れる頭脳、努力する才能、寛容な両親。ですが、あなたが断じた人は、条件が全て一緒ですか?

 

もともと、体あるいは心が弱くできているかもしれない。目に見えない、知らないところで不運なことがあるのかも。

 

こういう想像をしないから、「弱くて駄目」と一蹴してしまう。残念なことです。こういう人は僕は人間としては尊敬できません。仕事で一目を置くことはあるでしょう、しかし、そこまでです。本当の強さは、その人にはない。

 

本当に強い人

本当の強さって何?

それは、弱者の境遇を慮って、想像して、足蹴にしないことです。その人のためになることを、自分なりに実行できる人。

自分が弱くては、誰かの力になどなれませんから、自分も強くなる必要があります。これを踏まえると、本物の強さを身につける能力は運に依るところが大きいのかもしれません。こんなところで運が出てくるのは、なんだか切なく感じます。

話は戻りますが、本物は、馬鹿にされても平気です。むしろ、笑って返します。全ての物事を、プラスにとらえる力があります。客観的にはどんなに不遇でも、むしろ千載一遇のチャンスとしてそれをとらえます。強いですね。

 

そして、自分が強いことを「運がいい」と捉えられることです。これが最大の強い人の条件。これを前提にできれば、誰も馬鹿にはしないはずです。

 

運が良いから、さらなる運を求めるのではない。社会に所属している意識を強く持って、全体を100と認識し、空いた穴を補てんするような行動あるいは思想を持つこと。これが、僕の認める強い人の考え方です。

 

おわりに

弱きに想いを寄せる人間の、周りに少なき事、現実世界では心細く感じます。そういったことを実際に述べると、異端の目で見られることも少なくありません。世間というのは、残酷です。できれば、同志が欲しい。しかし、今の環境でそれを望むのは現実的じゃないのかも。

 

であれば、こうやって、せめてネットの世界だけでも自分の考えを発して、1人でもこれに影響を受け自分の運の良さを自覚し弱者に寄り添おうと思ってくれること、希求するのみです。

 

社会はすべてが集まって100です。綺麗な20だけでは、物事は回っていない。光あれば影もある。影を否定して光を肯定することはできません。コインは裏と表で一体です。極端なコインになってはいけない。表がひたすら煌びやかに、裏が吸い込まれるような闇になっては駄目。少しでも中間のコインに近づくように。

 

運の良い者も悪い者も、人間の尊厳を毀損せずに生きている社会を望むブロガーの、とりとめもない意見です。