「Iメッセージ」という言葉を初めて知った。
アイメッセージは、「アサーション」と言う分野で頻繁に活用される技術です。気持ちを伝える時に「私は…」を主語にして主張します。
逆の言葉で「YOU」メッセージというものもある。
Iメッセージとは対照的に、主語を「あなたは…」とする技術をYOUメッセージと言います。
メリット・デメリットを表にしたものがこちら
以上は
こちらのサイトから引用させていただいた。
YOUメッセージを避ける意識
自分はどうもYOUメッセージが苦手だ。
何故ならば、何か問題が起きた際に「あなたのせいでこうなった」など原因を相手に転嫁することで自分の責任を回避しているのではないかという意識があるから。
もし、これを常態化させてしまうと、次に同じようなトラブルがあった際に自分の力で対処するのが難しくなる。
外的要因(あなた)は回避するのが難しい。でも、「自分がこうだったから」という意識が少なからずあれば、自分の意識や行動を変容させることでそのトラブルを乗り越えることができる。
これは人格を陶冶させていくうえで欠くことのできない概念と思う。
一見、声が大きくて気難しい人も、YOUメッセージを声を大にして叫んでいるところを見るに、主体性の無さというか無責任さを感じざるを得ない。そして、結局その人は弱くて中身がないんだなと感じさせられる。
同僚にも、知人にも友人にも、そう見られたくはないし、なにより自分で自分の成長をストップさせるような責任転嫁に直結するYOUメッセージは避けたい。そういう縛りの意識を常に持ち続けている気がする。
YOUメッセージも使いどころを間違わなければ、社会で生きる上で有効なのだと思う。なにも、すべてがすべて、Iメッセージで完結させなければいけないというものでもないし、ときにはYOUメッセージも使わなければ解決できない物事もあろうかと。
しかしながら、やっぱり自分の中の、40年近く生きてきて後悔をしない思考というのは、Iメッセージを中心に考えることであり、今のところそれがブレることはなさそうである。
相棒(彼女・妻・夫・または家族など)がIメッセージを使えない
使わないのか、使えないのか。
僕の彼女はIメッセージをほとんど使わない。
なにか問題が起きれば出てくる言の頭には「あなたが・・・だったから」というものばかり。そして、精神が安定しない。
基本、まじめで家族想いでお仕事もきっちりやる、社会生活を人並以上に全うしているように見える。蛇足だが僕より稼ぎもよい。
しかし、こと恋愛においてはYOUメッセージの使い手となる。ステ振りがどこでどう間違ったのは知らないが、「私は・・・」という言葉をお付き合いして以来、ほとんど聞いたことがないのである。
これには、ほとほと困ってしまった。喧嘩のたびに、こちらは「自分はどう思うんだけど、そちらはどうなのか?」とすり合わせを求めても、「じゃあそう言うなら・・・」と切り返されて、自分を主体にして話をしない。
何度か、「あなたはどう、じゃなく自分はどうかで物事を語ってくれ」と直球で伝えたこともあるが、それも宙に舞って霧散してしまった。こちらの意図が少しでも伝わったのか、手ごたえがないので分からない。
でも、なんだかんだしているうちに仲直りはするし、安定している時は大変可愛らしくいとおしく、一緒にいるだけで幸せな気持ちになることは確かだ。だから、別れるつもりはないしどちらか死ぬまでご一緒しようという覚悟は十分にある。
自他の境界が曖昧になっている方の話を読んで
https://anond.hatelabo.jp/20200924113225anond.hatelabo.jp
こちらの記事をまずは読んでいただきたい。
それに対して助言・・・いや忠言?を申したのがこちらの記事だ。
最初の記事は、共感性が低い(と僕は読んだ)夫と、我慢を重ねて一緒にいた挙句に精神を病み、それをぶちまけたもの。
2つめの記事は最初の記事の書き手に対して、歯に衣着せぬ感じで、ど正論を述べている。先述、Iメッセージという言葉はこちらから知見を得ている。
心が揺れていない僕ですら、特殊な見えない棒で頭をぶん殴られたような衝撃を受ける火の玉ストレートを炸裂させているので、最初の記事の書き手がもしこれを読んだなら再起不能になってしまうかもしれない。
でも、書いてあることは至極正論。もう、逃げ場のひとつもない。誹謗中傷などなく、善意で書かれたものであることは間違いないが、純な正論は生半可な悪口よりも切れ味が鋭くなるのだと思い知らされる。
さて・・・この2つの記事を読了して。自分も決して他人事ではないなと思った。だから、こうして普段は書かない長文を休日の昼下がりに書いてしまっている。
彼女もそうだ。Iメッセージを使えない。つまり、少なからず自他の境界が曖昧になっているのだろう。
だとすれば。件の正論記事にあるように、行きつく先は仮面夫婦か共依存夫婦になってしまうのだろうか。
それは嫌だ。少なくとも仮面夫婦はごめんだ。言いたいことも言えず、ただただ関係が冷え切っていく夫婦生活など、もう懲り懲り。経験済み。
でも、共依存は・・・。受容したい。
甘い情にほだされて地獄逝きの切符をつかんでいる自覚はない。そうじゃなくて、共依存でも相手を抱擁できれば、その関係でも幸せになれるのではないかという甘い認識がある。
今の関係は、レッドサインは出ていないと思う。
たしかに、自分を主体にして語らない相手を伴侶にしようとしているのは事実。けど、でも、相手は少なからずIメッセージを内包している。こちらの一挙手一投足で判断基準をすべて変えてしまうほどの極端な性格ではない。破滅をもたらすような束縛もない。きっと、ある程度の自省はできていると思う。仕事を責任感を持って、人並み以上に全うする彼女だから。
いつかカウンセリングを受けさせて、自分の闇と向き合わせて、自立したパーソナリティを40間近の人に求めるか?
求めてそれが受け入れられて、少しづつでも前進してもらえれば、これ以上はない。けれど、きっと、難しいだろう。他人がとやかく言っても、結局、自分を変えるためには自分で気づかなければいけない。行動するのは自分。水飲み場に連れて行くのも大変だが、かたくなに水を飲まなければ意味はない。
だとすれば。
自分は少なくとも相手の不安定さを、人並み以上の寛容さで受け入れてあげれるような強い心を持ちたい。一緒に不安定になっていると、それこそ地獄に真っ逆さまだろう。
誠実に。不貞はしない。酒やギャンブルで身を持ち崩すようなことはしない。俺はここにいるよ、とドーンと構えてあげる必要があるのではないか。
相手は少なからず不安定。主体を自分に置いていない以上、こちらが不安定になるということは相手を不安定にさせるということだ。ならば、基礎として土台としてデンと構えてあげようではないか。
聞くところによると過去の男性遍歴では金を無心されたりATM代わりにされたり、挙句よそと子供を作られて結婚が破談になるなどの苦労をしたらしい。
相手に依存している以上、どのような仕打ちをされても切ることはできなかったのだろう。自分を主体にして行動している人ならば、論理的に考えればそんな相手は切ってしまうのが普通なのだろうけれど(多少の情で切りにくさはあろうが...)。 なんとも不憫な話だ。
で、不思議な縁で僕と出会った彼女。不安定さは変わらない。けど、こちらがどっしりと構えて笑顔でいるうちは、相手も安定して関係を築けている。
この先、不安定な相手と一緒にしては、決して幸せは訪れないと思う。であれば、この僕でせめて幸せに人生を全うしてもらいたいな。そう考えるのはもはや共依存なのだろうか?
僕が倒れれば相手も倒れる。こんな関係は健全とは言えないだろう。でも、だからといって、「あなたは自立していないのでこれ以上の関係は続けられない」と切り捨てるのが最善手なのだろうか。それは、人間として逆に不自然な気もする。
すべて理屈では説明できない。メリットデメリットでも考えられない。はたから見れば狂気の沙汰にも見える様々な行動や思考は、渦中から見れば理屈では説明できない、それなりに考えた末の情の決断でもあるのかもしれない。
もし、そういうものを見たら、「お前馬鹿じゃねえの」と切ってすれるのではなく、「いろいろあったんだね」と慮るくらいの優しさを、世間に求めたい、もう何度も、裏切られているのだけれど。