齢15歳の少年が、いじめにより自ら命を絶った。
この壮絶な事実を、社会はどう受け止めるか。
一過性のエモーショナルな"モノ"として消費するのか、それとも今後のいじめ対策に活かそうとするのか。
このような事件は枚挙にいとまがないわけだが、一人の人間が自ら命を絶つというのは大変なことであり、それについて真相解明や再発防止には全力を注ぐ必要がある。
自分はかつて、いじめを受けていた。その時の話は
こちらに記載してある。
だから、間違っても「いじめられる方にも問題があるんだよ」だとか「努力が足りない」なんてことは微塵も思わない。いじめを受けるというのは、本当に孤独を感じるものなのである。
子供は狭い社会で生きており、自分で逃げ場所を作ることができない。経済的にも親の庇護のもとで生活しているので、通学する学校を任意で変えることも叶わない。
もし、学校でいじめを受け、それがエスカレートして針のむしろと化した場合、毎朝、冷たい鉄筋コンクリートの建物に向かって、暗澹たる気持ちで歩を進めなければならない。いわゆる陽キャやリア充と呼ばれる人たちに、この気持ちは理解できないのだろう。もちろん、いじめる側の人間も。
教育委員会?そこまで大きな話にはならなかったが、自分の場合は教師に泣きついた。しかし、教師も教育委員会と同じ「大勢側」である。なので、いじめを受けている、いち小学生の悲鳴などは煩雑でしかない。彼らにとっては些末なことで、蚊が死に絶えそうだ、くらいにしか考えられないのかもしれない。こちらの苦痛に寄り添ってくれるそぶりは微塵も感じられなかった。そして、いじめる側も「大勢側」である。周りで見て見ぬフリをして、陰でいじめに加担している人も同様。
親が戦ってくれる人で、子供のためなら火中にも身を投じるくらいの胆力があったから、僕は救われた。しかし、親が「みんなそう言ってるもの、あなたが我慢しないと。仕方ない」と言ってしまう家庭だったら。想像するだけで絶望しそうだ。
件の事件の反響にもあったが、いじめは刑事事件として取り上げなければならない。今後の制度改革が望まれる。「いじめ」という言葉で物事の本質を覆い隠し、大勢側が事を免れるための免罪符に、「いじめ」は使われているような気がしてならない。
もし「いじめ」という言葉が出たら、「いじめ?よろしい、ならば警察だ」くらいの流れが自然に出る社会にならないと駄目だ。もし、そのような体制を作るとなると、当然のように法的なものから道徳的なものまで問題は山積するだろう。しかしながら、現時点でいじめを受け、救われず悲鳴を上げる幼き命や、儚くも散ってしまった者たちの無念を考えると、聖域を作らない血を流すくらいの改革が必要なんじゃないかと。
かつていじめを受けた者としては冗談抜きで真剣に思う次第なのであった。