いじられてムカついてる?
傷ついてる?
今日も学校や職場で嘲笑されて、ズタズタになって返ってきたあなたに、いじられ歴30年以上の僕がこの記事を捧げます。
いじり
「いじる」ってのは、冷やかし半分にその人をからかって、周囲の笑いを得る行為を指すと認識しています。大抵は複数人がいる前で、いじりは行われます。
4 おもしろ半分に、いじめたり、からかったりする。「先輩が新入社員を―・って楽しむ」
コトバンクから、該当すると思われる意味を引用します。
これって、果たして良いことなのでしょうか?
いじりのメリット
まず、笑いを誘えます。笑うことで各個人のナチュラルキラー細胞が活性化し、さらに精神の高揚をもたらすでしょう。
次に、「いじり」が上手くいった場合に、いじり役といじられ役、または周囲の笑っているものといじられ役の距離が縮まる場合があります。
いじられた当人にとって、そのいじりが耐えがたい苦痛ではなく、「構ってくれている」と認識できれば、寂しい思いをすることがない。これもメリットといえばメリットです。
いじりのデメリット
さて、デメリットですが。
まず、いじり役のいじり方が雑で配慮に欠けるものであれば、いじられた当人はもとより周囲が引いてしまうケースもあります。これでは場を和ませる以前にその場の空気を凍り付かせてしまい、どうにもならなくなってそれ以降の人間関係は冷え切ってしまう場合があります。
また、いじられ役がそのいじりを「いじり」ではなく精神的攻撃ととらえた場合ですね。こうなるとそのいじりは単なる暴力と化します。これによるデメリットはまず心のダメージですね。いじられ役が反論できずに心にダメージを蓄積し続け、ついには病気になってしまうこともある。
次のパターンは猛烈な反撃ですね。降りかかる火の粉を払うのは生物の本能です。いじりを火の粉と認識したのなら、それを払うことはごく自然なことと言えます。こうして、軽くいじったつもりでも相手と猛烈な喧嘩になってしまい、修復不可能な関係になってしまうこともありますね。
いじりの是非
さて、どうですかね。いじりってのは、必要なのか。それとも不要なのか。
一概には言えないところです、上手くいっているいじりは、その場を和ませて円滑なコミュニケーションを作り出しているでしょうし、雑で度の過ぎたいじりは、加害者と被害者を生み出しています。
今日も全国各地でいじりいじられが繰り広げられていることと存じますが、あなたにとって「いじり」とはどのようなものでしょうか。ここが肝なのかと。
是非は、人によってマチマチ。日頃誰かをいじっている人が、とっても上手にいじりをしていて、止めてしまうと職場がつまらなくなったりマネジメントに支障を来す場合などは是とするでしょうし。いじられても傷つかずにプラスの方向に物事の見方をもっていける人にとっては、いじられるというのは大変ありがたいことになるでしょうし。
逆のパターンは割愛します。
他人を「いじる」資格のない人々
僕にとって、雑ないじりというのは「心の機微をとらえきれない鈍い人がマウンティングの一環として行っているもの」です。
逆に絶妙ないじりというのは「いじった相手も周りも損をせずに笑いを生み出し場を和ませるエンターテイナーの技」と思っています。
色々とすっ飛ばして言いますと、
「鈍感でセンスの無い奴はいじりをする資格なし」
です。
良いいじりって、凄く難しいんですよ。
- まず、いじる相手の表情や姿勢から精神的健康度を推測
- その場に誰がいるのかを把握してワードを選定
- いじる相手と、いじるまでの通常会話を成立させる
- いじる瞬間にその場が「いじり」可能かどうかを再度確認
- いじり実行
- いじった相手が傷ついてないかの確認
- もし、しくじったのなら、いじった相手へのフォローを忘れない、もしくはそれ以降はその人をいじるのを止める
- 傷ついていない様であっても、相手を持ち上げるフォローを自然に入れる
- 繰り返すことによって誰も傷つかないいじりを磨いていく
どうでしょうか。以上のことを誰もが実施可能だと思えますか?
僕にはちょっと難しい。万年いじられキャラだけど、相手や場次第でいじることはあります。でもそれは本当にスリップしない瞬間だけ。少しでも怪しければ、いじりなどという高度なアクションは起こしません。当方敏感で人の感情を伺いながら生きているタイプですけれど、それでもなお、いじりが難しすぎると感じるのです。
日頃、誰かをいじっている人へ。
相手がどう思っているのか、常に効果判定していますか?
いじったあとに、相手の表情や仕草を見ていますか?
もし、眉間にしわを寄せていたりすれば、それはわかりやすい「NO」のサインです。それすらも推察できないようでしたら、日頃から色々な人を剃刀の如く傷つけて生きているのでしょう。
ここを見て「自分のいじりは過剰で相手を傷つけているかも」って感じるようでしたら、もしかするとあなたは
他人を「いじる」資格のない鈍感な人
なのかもしれません。死人が出る前に、その「いじり」止めたほうが良いでしょう。
いじられ人生
身の上話になります、お暇な方はお付き合いを。
幼少期から肥満体系で、おもに「デブ」「豚」などの冷やかしでいじられてきました。
学校の授業で太ることに関する項目に当たるたびに「これって、アイツのことじゃね?」などとクラスでクスクスと笑いが起きる。こんなことが1日に1回は発生していました。
鏡を見るのも嫌で体型を気にしていた思春期の僕にとって、それは筆舌に尽くしがたい恥辱でありました。時には顔を真っ赤にして怒り、時には物陰で涙を流す。でも、いじる相手は、これを見てさらにエスカレートし面白がる。そして、無力感に苛まれます。
こんなことが10年以上も続いたのです。
あれから十数年の月日は流れ。肥満体系も解消し、数々の辛い体験を経て諦念の境地に片足を踏み入れた僕にとって、もはやいじりは養分と化したのです。
職場でもいじってきます。主に過去の遍歴についてですね。面白おかしく、今日もいじってきました。でも、それを聞いて僕は流れに乗り、最大限に場を盛り上げる。
いじってくる相手、特に雑ないじりをする人は、自尊心が高くコンプレックスがあるのだと思います。自分はひたすら、いじり役に徹する割には、いじられる機会がほとんどない。もし、いじられたら顔を凍り付かせてリアクションを取れないからです。それを、周囲も察している。「こいつは、いじれるキャパシティーがない」と判定されているのです。
こういう人に、いじられる。それって、慈善事業みたいなもんですよ。相手に、上に乗らせてあげるのです。闇を抱えた心を、少しでも癒してもらう。それで、その人の役に立っているのなら、万歳じゃないですか。怒ったら、その人はこちらと上手くコミュニケーションを取れなくなるかもしれない。真顔で「お前、いい加減にしろよ?」って言ったら、それっきり、こちらを避けてしまうかもしれない。恐れおののいて。
雑ないじりは、弱者の悲鳴です。そして、それを笑って許す度量は、強者の特権なのです。今日もいじられて笑っているそこのあなた、本物ですね。真の強さを持っている。なんというタフネス。
いじる相手は、僕らの出方を伺っています。真に強いかを、本能的に判定しているのです。そして、いじっても受け入れてくれる僕らの強さに寄りかかる。
いじる、いじられる、というのは相撲みたいなものです。
土俵の上で、お互いにまわしを掴みながら、のこった、のこったをしているのです。押し切られて放り投げられた時、それは怒って反撃した場合でしょう。逆に、相手を土俵の外に押し切る場合。これは、どんないじりにも笑って飄々としている、凛とした強さを見せつけた時です。僕は、いじられれば、その時に試合が開始しているのですよ。相手との、土俵での戦いを。
最後になります。
世の中、僕のような変態ばかりではありません。いじられて心がえぐられる日々を過ごしている人もいるでしょう。そういう場合まで、相撲に例えてギリギリの勝負をしろとは言いませんから。信頼できる人に心の内を明かすなり、職場の人事に通報するなりして、どうか身を護ってください。無理は、しないで。それもまた、ひとつの戦い方なのです。
そして、いじりだと認識していたら犯罪であるケース。これも注意です。暴力もそうですけど金品を奪われるような行為は、紛れもない犯罪ですからね。相手に刑事罰を科すことができる。いじりと犯罪を混同しないように。証拠を集めて、社会的制裁を受けてもらう選択肢も、きっちりと持ってくださいませ。