羆の人生記

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慈悲の瞑想で自分の幸せが全く浮かんでこなかったことについて

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みなさんこんばんは。

幸せですか。

幸せな人もそうでない人も、少し見て行ってください。

僕は最近、慈悲の瞑想というものを始めたんですよ。

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響きから抹香めいたものを感じるかもしれませんが、根底にあるものは感謝で、日々の暮らしをより幸福にするための精神的活動、ライトなものと捉えていただいて結構です。

慈悲の瞑想

私は幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願いごとが叶えられますように
私に悟りの光が現れますように
私は幸せでありますように(3回)

私の親しい生命が幸せでありますように
私の親しい生命の悩み苦しみがなくなりますように
私の親しい生命の願いごとが叶えられますように
私の親しい生命に悟りの光が現れますように
私の親しい生命が幸せでありますように(3回)

生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように
生きとし生けるものに悟りの光が現れますように
生きとし生けるものが幸せでありますように(3回)

 

私の嫌いな生命が幸せでありますように
私の嫌いな生命の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな生命の願いごとが叶えられますように
私の嫌いな生命に悟りの光が現れますように

私を嫌っている生命が幸せでありますように
私を嫌っている生命の悩み苦しみがなくなりますように
私を嫌っている生命の願いごとが叶えられますように
私を嫌っている生命に悟りの光が現れますように

 

生きとし生けるものが幸せでありますように(3回)

慈悲の冥想

生けとし生けるものすべてに幸せを。

このような言葉を心の中で(あるいは発声し)唱える。

そうすることで、他人を思いやり、自分を慈しむことのできる精神を養える。思い付きでやるよりは毎日の習慣にすると良いのではと考えています。

僕は、朝目が覚めて意識がハッキリした段階でこの慈悲の瞑想を行います。色々な人を思い浮かべ、それぞれが幸せな様子を描く。そうすることで、慈悲と感謝の心をベースにしてその日を過ごすことが容易になります。

かつて、こんなエントリーを公開したことがありました。 

www.pojihiguma.com

朝、起きてすぐに「ありがとう」と発声する。

これだけで魔法のように、その日は誰かに感謝できることが増えるというものです。

今回、題材にした慈悲の瞑想に通じるものがありませんか?

僕は、これは同じ原理だと考えています。慈悲の瞑想のほうが、時間もかかるし心に潜る時間が長いぶん、効能は高いのかもしれませんが。

 

慈悲の瞑想を行ったら

浮かんできますね。

まずは好きな人の顔。

両親。

今は離れてしまった友人のこと。

 

それらの姿がありありと心に映し出されます。右脳に感謝せざるを得ません。

 

子供と楽しそうに過ごす姿。

自分の好きな趣味に没頭して時間を忘れたり、静かな場所で穏やかに過ごす姿。

仕事に打ち込み、自分の弱さと対峙して勇気のある人生を送る姿。

 

どれも心が温かくなります。

やっぱり、大事な人や友人には幸せになってもらいたい。そう思いませんか?

 

さて、次は自分の幸運を祈りましょう。

自分の幸せになっている姿を思い浮かべる・・・

 

 

・・・

 

 

・・・・・・

 

 

全く出てきません。

 

なぜ?

 

僕の幸せって、そもそも何だったのでしょうか?

かつて僕の幸せとは

ずっと、こんな幸福を思い描いていました。

「結婚して、幸せな家庭を築く」

これは両親がモデルケースです。

基本的に仲が良いし、親父も優しかった。

夜中に喧嘩してて、間に割って入ったこともあったっけ。

子供にとって家庭の崩壊は最大の危機だからね。

本能的に感じて、かすがいがよりかすがいらしくなるよう、無意識にふるまっていたのかもしれない。当時の僕、Good Job!

ま、そんなこんなで安定した家庭。離婚するかしないかの瀬戸際なんて経験しなかったものですから、やっぱり理想のイメージ像になりますよね。

さて、現実は。

結婚2回、離婚2回の独身落ち武者街道をひた走る自分の姿があります。

甘くはありませんね。自分が頑張れば、結婚しても必ずうまくいくなんて欺瞞でした。相手は他人。子供も他人。他人を意のままにできるわけがありません。

意のままに、だと語弊がありまして縛り付けるイメージが浮きますが、そうじゃなくて「相手を幸せにする」という概念ですらも妄想です。誰かを幸せにすることなんてできっこないんです。理屈で考えてもそう。

とどのつまり、誰かを幸せにするためには、その人に影響を及ぼしてその人自ら幸せになってもらわない限りは幸せなんて虚構に終わるんだなと。そういうことなんです。これ、現在の結論ね。

話は戻りますが僕の中で「結婚=幸せ」の図式は脆くも崩れ去りました。

さぁ、どうしましょう。幸せはどこにある。

お金?

確かにお金は世の中の誰しもが認めざるを得ない幸せの指標です。文句のつけようがない。これだけ多くの人が拝み倒すもの、もっともわかりやすい幸せを具現化したものではないでしょうか。

しかしながら、お金だけで幸せになれるわけではありません。メンタルクリニックやカウンセラーを頼る人はすべてお金のない人でしょうか。心が荒んでいく人は、100%が貧困者なのでしょうか。比較すると多いのでしょうが、お金を持っている人も少なからず心を病むことを考えれば、お金が全てを解決するとは思えません。

はい、僕の中で「お金=幸せ」ではありません。強いて言うなら「お金=幸せを感じることのできる最低限の条件」と述べましょうか。貧困者が心に余裕がなくなり幸せを感じられなくなる、貧すれば鈍するがごとく赤貧に喘ぐような状態では、確かにそれはお金が必要な状況でしょう。ですが、地に足のついた安心欲求が満たされるレベルのお金さえあればあとは日々の暮らしの中で幸せを感じながら生きることは可能です。だからこのラインは社会のシステムで補償すべきであり、それが国のあり方だと強く思うのです。一部の人間が富の飽食に耽溺する現代は歪で、とても心苦しくなる状況です。

話が逸れましたが、お金で幸せにはなれないってことです。それが僕の中には強くあります。だから、幸せの定義にはあてはまらないのです。

物質的な面でもそう。良い家に住んで、良い車に乗って。そんなものは慈悲の瞑想では一切の想起を見ませんでした。欠片すらも浮かんでこない。泡沫の端にも浮かばぬということは、物質面での幸福感はもう十分に満たされていると言えましょう。自分の家の中を見渡してもそうです、なんとシンプルな事か。

 

僕の幸せはなんだろう?

結婚でもない。

お金でもない。

物質でもない。

 

・・・

 

いくら考えても出てこない。

 

でも、出てこない、ということはもう、出ているのかもしれませんね。

  • 足りた衣食住。
  • 五体満足な身体。
  • 健在の両親。
  • 周囲の良き理解者。
  • 大切な人たち。
  • 朝が来る(来た)こと。

そう、気づかないだけで、そこにはあった。

確かにそれはある、だからいつの間にか当たり前のものとして扱っていたのかもしれません。水道の蛇口を捻れば当たり前のように水が出るかの如く、息を吸えば当然のように大気中の酸素を体内に取り込めるが如く。それはあたりまえのようであって、奇跡とも呼べる幸運なのかもしれません。

 

このような漠然?とした答えだけでこの記事を終わらせるつもりはありません。

 

僕の心の中で、実は「これが幸せだ」ってものが、なんとなーくだけど解ってきたような気がするのです。

 

慈悲の瞑想で想起した、大切な人、両親、友人など。

彼ら彼女らの幸せを願う自分の気持ち。想像する幸せの絵。

そして、実際に会ってその笑顔を見て、彼らの幸福を目の当たりにしたとき。

 

この瞬間こそが、僕の幸せなのかもしれない。

 

誰かの幸せを願い、その幸せを実際に感じること。

これこそが僕の幸せなのか?だとしたら、すごいことだよこれは。

だから、なんとなーく、と表現したんです。

本当の意味で、利他的に振るまえるほどの人間性を獲得できたとは思えないし、まだまだ捨てきれなものもいっぱいあるからね。

けど、これが、誰かの為に生きるということを意識せずに行えるようになる最初の一歩なのかもしれない、と考えれば、自分の人生もあながち捨てたもんじゃないのかな?って思いました。

 

幸福な人生を目指して頑張っているときが、もっとも「幸福」なのかもしれません。

橘玲 幸福の資本論 より