羆の人生記

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神社にお参りして感謝を告げている

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こんばんは。

僕は3日に1回は神社にお参りしています。

理由は「五体満足で健康に生きている奇跡に感謝するため」です。

これがメイン。

あとは僕の周りにいる人たちの幸せを祈ったりとか。

神社に行くようになったきっかけ

言葉にするのは難しいんだけどさ。

30歳代の中頃に強烈な挫折を経験することで、僕の中で「生きている」ってことが当たり前じゃなくなったわけ。

これどーなんだろ、遅かれ早かれ誰しもが経験するのかね。それが30歳代の中頃というのが適齢期なのかもわかんない。

とにもかくにも、自分の中でいろいろなものが「有難い」と思えるようになってきた。 いままで当たり前のようにあるものが、有難いと思う気持ちです。

で、この「有難い」ってのは、必然なのだろうか?僕にはどうも、そうは思えない。五体満足で健康で、今ここで生きているというのは奇跡に近いことなんじゃないの?って薄々思うわけさ。

で、これって絶対、自分だけの力じゃないよな、と。ましてや偶然の産物でもないだろう。じゃあ・・・うん、そうだよね、きっとこれは人智を越えた何かが作用しているのではないだろうか、と。理屈で考えてもそうなんじゃないかって真剣に考え始めた。

だから、神社にお参りに行くことにしたんです。八百万の神様が、きっと僕のこの超絶ハッピーな状況を作り出すのに、ものすごい手助けをしてくれているんじゃなかろうか、と。これ、本気です。

だからね、僕は神社にお参りすることにしたんです。いや、八百万の神ってのは、多分神社以外にもいっぱいいるんですよ。いま、自宅でノートパソコンをぶっ叩いてる横にも、きっといる。だから、今ここで手を合わせて祈っても、彼らにはきっと通じるとは思うんです。

でも、なんつうか改まりたいんですよ。そこに「おわす」というのが、間違いなく感じられるような。それが政や私利私欲の果てに建立されたものか否かはこの際置いといて、神社で厳かで鳥居があって「ああ、いるな」って自分でもその意識に入れる場所があるのであれば、それでいいのだと思います。

だから、自分は神社には八百万の神々がいるのだろうな、と確信をもって神社にお参りをするわけであります。

 

スピリチュアルなことを、どこか小ばかにしていた若かりし頃

「宗教?弱者がすがる妄想でしょ」なんて本気で考えていた時期が僕にもありました。

とにもかくにも物質こそすべて、金で買えないものはない、努力にこそ至上の価値がある、弱きものは淘汰されて当然ではないか。

こんなことを考えて突っ走っていた20歳代。当時は割と本気でしたね。弱い者には蔑視を向ける。努力しないが故のその有様であることを自覚せよ!なんて審判を幾度となく下してきたか数知れず。

無理もないかもしれません。僕は淘汰の嵐の中をかいくぐってきました。小学校は腕っぷし、中学校は学力差、高校時代は恋愛経験の有無。こんななかで、自分の存在意義を見出すには、その場で主だった価値判断に依拠するしか処世術がなかったのかもしれない。

目に見えるものに価値を置くには、十分すぎるほどの環境の中で育ってきました。スピリチュアル?ネタでしょ?

 

人生はスピリチュアルだった

物事は捉えよう。

例えば、自分がどんなに悲惨な状況下に置かれても、その状況をどう捉えるかで精神の安定度は変わっていく。潰れる人は潰れるが、潰れない人はそれぞれにポジティブ変換して神がかった前向きな姿勢で生きていく。

昨今、良く取り上げられがちですよね。物事の認知(捉え方)次第でストレスコントロール能力に差が生まれるとか。

ある出来事ひとつを捉えるにしても、ネガティブに捉えればそれは良くない結果を生むし、ポジティブに捉えれば肥やしになる。こんな事例は、社会生活を送るにあたっては枚挙に暇がないではありませんか。

あれれー?これって、スピリチュアルなんじゃないの?

どんな出来事も、心の捉え方で結果が変わってくる。これは物質的なものじゃないですよ。明らかに精神的な分野における作用ですよね。もう、物質とかお金の話じゃないじゃないですか。

今まで物質至上主義で突っ走ってきた概念を、これでもかというくらいに崩壊させるでき事ですよ。世の中、目に見えるものじゃなかったんですか??混乱は深まるばかります。

 

でもね・・・挫折を通して、わかった。

生きていること自体が、凄いことなんだわ。

ましてや五体満足とか。

神様、こんな幸運を僕に与えて大丈夫か?

 

「大丈夫だ、問題ない」

 

ありがとうございます。

 

人生は精神に満ちている

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だからこそ、僕は神社にお参りをする。

ここにある奇跡に感謝するため。

その感謝を、忘れないため。

生きているだけで、どれほど有難いか。

五体満足でいれることが、いかに奇跡的なことなのか。

これを当たり前と考えた時点から、人生の歯車は良からぬ方向に動き出すのだと思います。

2礼2拍手1礼。

その中に込める、今ここにある奇跡を祈る気持ち。

 

神社は良いよ。

感謝の心を保つことができる。

皆も、近くの神社に行ってきなよ。

そして、今ここで生きている、ということの奇跡を神々に感謝するんだ。