これは雑草についても同じなんだけど、家の前の積もった雪を「しっかり」除雪しないと、だらしがない、と言われる。主に職場の人に。
ある年のこと
僕は一軒家に住んでるのだが、一時期、車を手放したことがある。それで迎えた冬。車を駐車するスペースはまあ来客が困らない程度に車道付近に確保して、あとは人が2人くらい歩ける幅があればいいや、ってな具合に除雪してた。除雪ってすごい疲れるんよ。特に湿った雪の時は最悪。腰悪くしたり体調崩す人もいるくらい大変なの。だから、除雪なんて最低限でOKって思ってた。
職場の人から言われた「だらしがない」
「お前の家の前を通った時に、人の歩ける幅しか除雪してないのを見て、俺はもう『あいつは駄目になった』と思ったね。」と言われた。要するに、だらしがないよ、と。
それを聞いて僕はイマイチ納得がいかなかった。人の家の敷地を横目に見て、それで直接本人にそんなこと言ってくるとか、こいつ頭がおかしいんじゃないか、とさえ思った。
けど、その人だけじゃない。みんな(特に年寄り)は、除雪はしっかりしなきゃアカン、と何かに憑りつかれたかのように説教してくる。いったい、なんなの。余計なお世話だよ。
割れ窓理論的な?
余計なお世話だ、って内心は感じながらも、やっぱりそんなこと言われると心に残っちゃう。というわけで今ではしっかりと除雪をするようになった。
まったく、納得のいかない心でやっているわけじゃなくて、自分の中で、そういう説教をする人たちの言い分が何となくわかってきたのだと思う。
割れ窓理論をご存知だろうか。
割れた窓を放置しておくと、それが当たり前になって犯罪が発生しやすくなり、荒んでいく、というもの。
これを積雪にあてはめると、「あそこの家は除雪もしっかりやらない、だらしがない家だ。だから空き巣にも入りやすいのでは」などが考えられる。
世間では、この割れ窓理論を知ってか知らずか、「だらしなくしてたら、社会が乱れるじゃないか。だからお前、しっかりしろよ。社会の一員だろ?」と警句を発しているのでは・・・?
まぁ、逆に積雪は足跡残るし防犯対策になるんじゃー!というアグレッシブな反論もできなくはないんだけど、それを出したところで「いやおまえ屁理屈こねて除雪したくないだけだろ」とさらなる追撃を受けることは必至なので、いたさないけれどもね。
自宅周囲に積雪があったところで、周りの家に迷惑はかけているとは(直接的には)思えない。だとしたら、間接的に世の中を悪くする作用があるんじゃない?とにもかくにも、自分ではこう理解した。
雑草とかも、そうなんだろうな
春~秋にかけて、「お前の家の雑草はひどいぞ」と言われ続けて3年。もういい加減嫌になって除草剤を撒くようになった。それで、雑草とはきれいさっぱりお別れしたのだけれど、きっとこの雑草も同じ理論なんだろうな。「だらしなくしていると、犯罪を産むぞ」という昔からの教えを忠実に守っている人たちが、今の若い人たちに口を酸っぱくして言うんだな。
んまぁ~、確かにご近所さんに、家の敷地に所せましとゴミを積み上げている家があったら、臭い云々の前に「うわ・・・」ってなるよ。捨てられないのも精神病の一種だし、治療が必要だし、行政の力を借りなければ脱せないゴミ地獄なんだろうけどさ、生理的に嫌悪感を催すことは、どうしても止められない。積雪も雑草も、同じなのかもしれない。
これからは、こういう御節介さんは減る
積雪や雑草にギャーギャー言う人ね。確実に減るよ。自分が世代のスタンダードではないけれど、他者のことはどうでもいい、って人は身の回りにわんさか増えている。もう、社会(世間)で個人の面倒を見よう、という気風は廃れ、完全に個人の時代へ突き進んでいる感じ。だから、アイツの家に1Mの雪が積もろうが、アマゾンのような雑草密林になろうが「それはあいつの自由だから、放っておけ(ハナホジ」となる。なっていく。いや、すでになりつつあるのかもしれない。
これって、どうなんだろう。確かに、言われたときは訳が分からなかったし、「人の家のことなんだから放っておいてくれや」って思ったけれど。考えてみたらそれはその人のことを考えて良かれと思っていってたことなのかもしれないし、そういう御節介さんが世の中にいっぱいいたからこそ、助け合いの精神を持てたのかもしれない。けど、それがなくなったら・・・。
まぁ、個人の時代は時代で、それに代わるシステムが生み出されんだろうし、あんま考えても杞憂に終わるだろ、ってことで、このへんで妄想劇場は終わらせる。