羆の人生記

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感情が顔に出ているうちは人間らしいって話

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この世界に入って十数年になりますが、毎年入ってくる新人さんが(主に年配の方々と)コミュニケーションをとれなくて苦戦している模様。

今回はそれについて思うこと。

顔に出てるよ

何か指摘されたときはテキメンに出てます。

眉を吊り上げたり口角を下げたりだとかそういうわかりやすいものじゃないんですけど、それまでスムーズだったやり取りが途端にぎくしゃくしだす。

顔に出ている、というくらいだから表出している問題の”表情”について表現しなければいけないのだけど、なんというのかな・・・うーんそうだね、無表情になる。

普段から仏頂面だったらまだわかりにくいのかもしれんけど、デフォルトで笑顔を振りまいているのにあることをキッカケに途端に無表情になったら「あれ?」って相手は思うでしょ?そんな感じ。

ほんと見た目はよくわからんのよ。だけど、僕がやりとりしててもわかる。指摘したり注意したわけじゃないけど、そいつの意にそぐわない方針だとか仕事のやり方を提示した際に「凍り付く」んですよね。その表情を見た瞬間に「ああ、君はこれが気にくわないんだね」と意識よりも早く無意識でとらえてこちらも若干身構えちゃう。おそらく先輩方はこれを無意識に察知するも、それを言語化したり俯瞰視することなく「あいつはどこか変だ、修正してやる!」と往年のブライト艦長ばりに息巻いちゃうんですよねぇ。

これ、指摘したことあるんですよ。「君、顔に出てるよ」って。だけども「え、そうですか、やっぱり。」とさほど重大には受け取っていないご様子。反面、コミュニケーションで苦労して愚痴っぽくなったりしてなんだかジレンマを抱えて迷路を彷徨う子羊のようにも映るわけですよ、僕の目には。 

自分の若かりし頃はどうだったか

めっちゃ顔に出してた!

感情の鏡なのかな?っていくらい顔に出してた!

酷いもんでしたよ、ちょっとでも理不尽だと感じたり気にくわなかったらすぐに眉を吊り上げて闘争中の獣のような顔貌になっていましたからね。この状態では先輩方も良い気もちはすまい。みんなあたりは強かったし、こぞって僕をつぶそうと躍起になっていたのを覚えています。そのたびに「あ?やんのかコラ?」くらいの気持ちでガチンコバトルとかしょっちゅう勃発させてました。問題児として会社に名前が知れ渡ったほどです。年上の同期には親でも言わないような言葉で戒められ、その回数は覚えていないほどです。

で、今はどうなの?

で、そんな僕がこうやってジジイのたわごとのようなことをつらつらと書いているわけです。つまり、(おそらくだけど)今の自分は感情を表情に出していない。できるだけ察知されないように、鉄の仮面を被る。その表面は大福様のような笑顔です。どんなにおかしなことを言われても、顔をゆがめずに無表情で「はい」とまずは答えます。その上で相手に重大なエラーがないかどうかを探る。いやその前に自分を疑います。「もしかすると、自分が間違っているかもしれない」これが若い頃に抜けていた視点です。

物事の正否などはわからないもの。ましてや人間の認知はとても曖昧で、もしかすると自分が常識だと考えていた事項が間違っている可能性もてあるかもしれないじゃないですか。また、相手が言っていることが100%間違っていると断定することも不可能です。であれば言われた瞬間に「なにいってんのこいつ?」と食ってかかる前にまずは自己点検。それくらいの謙虚さはあって良いと思うのです。

話がすすめば、相手が間違っていれば多少の頭があれば気が付くでしょうし、オーディエンスはどちらに正当性があるかを傍観しています。わかってても、言わないのです。もう、それでいいじゃないですか。自分が何らかの間違ったことを言われていたとして、言った当人はその間違いに気づいていない。でも、周りはちゃんとわかってる。そこで声高に相手の思い違いを指摘して恥をかかせる必要があるのかどうか?という話です。それが会社の損益にかかる問題だとか早急に対処せねばならないエマージェンシーであれば話は別ですよ。でも、ギリギリのラインまで許せる範囲の話題で相手が何らかのミスを犯していたとしてもそんなものは放置すればいいのです。そこで相手を正そうとしてムキになることこそが出過ぎた自我とも言えましょうぞ。

若い頃は仕方ないんじゃネーノ?

これですよ。多分、若い頃は仕方ない。社会に出てその理不尽さを垣間見た当初ならなおさらでしょ。だっておかしいんだもの(笑)言ってることの整合性というか理屈が通ってない。最近の若者は(なんて使うと僕もジジイ判定もらいそうですけど)ロジックで説明してやらんと納得しないですよ。みんな、頭が良い。コミュ力はともかくとして、会社に入ってくる新人はみんな方程式を示してあげればその解についておおよその理解を示すことが可能なのです。でも、年配の皆様はそれができない。できる人が少ない。「とにかく今までこうやってきたんだ、言うこと聞け!」だとか年功序列をナタのように振りかざしてマウントをとろうとする。だから若者は反発するんです。

若者はいつしか、自分の考えていることに筋が通っていると自信を持っているにも関わらずそれを潰しにかかられて、それで自信もしおれて「ああ、なるほど、そういうことだったのか」と諦念の境地に達するわけです。こうして表情から感情が消え失せる、と。めでたしめでたし。

あれ、めでたくない?

でも、自分はこうすることで身を護ってきました。だって、顔に出したらそれを察知されて本能的に潰しにかかる人が増えるじゃないですか。そうしたら職場は敵だらけになるじゃないですか。出社時に玄関を開けるまでが地獄になるじゃないですか。サラリーマンをやってる人ならわかると思うのですが、職種というよりも人に恵まれるかどうかってのは大きいですよ。そこをあえて自分の感情で難易度をエクストラモードに上げるメリットはどこにあるのよ?って話。

こういう諦めを会得するまでには、ほんとあらゆる試行錯誤だとか苦労が必要になるんですよ。「それなんて苦行?」って思われるそこのあなた、あまりサラリーマンには向いてないかもしれません。とにかく若い頃はこうした苦労がつきもので、顔に出てしまうのはしょうがない。

「こいつらはアホ」と考えるのとはまた違う

先輩方がアホだから仕方ねーから諦めてやるよ、ペッ!という気持ちだとやっぱりどこかにそれが滲み出て相手に察知され、敵を作ってしまいます。ですから、こういう心持ではいけない。じゃあどうすれば良いんだよ!って思われるかもしれないですが、その方法は至ってシンプル。相手を信頼してやればいいのです。言っていることを鵜呑みにするのとはまた違う。かといって切り捨てて聞き流すともまた違う。

相手を一人の人間として尊重してやるのです。感謝の気持ちを持つのです。もちろん、曇った眼鏡をかけろとは言いません。相手が述べていることが明らかに歪んでいたとしても、それに対しては(ああ、この人だから仕方ないね)と考えればいいのです。そして、菩薩の笑みを浮かべれば良いのです。そうすることで相手は溜飲が下がるというか納得する。ストレスフリーです。あとから自分で気がついたか若しくは誰かに指摘されてその間違いに気が付いた時に恥ずかしい思いをするのは当人ですから、それはあなたに何の関係もありません。

こういったケースだと「お前、気が付いてて指摘しなかったな!」と襲い掛かってくる御仁もいなくもないですが、そういう場合も「はい、気が付いてましたよ、ニパー☆」くらいのリアクションで返してあげればいいんです。だって、自分の意見をぶつけて今よりもより良いものを生み出そうとする土俵に、その人は立っていない。だから、相撲を取るエネルギーそのものが無駄なのです。もし間違いを指摘したとしても顔を真っ赤にして「いいや、俺の方が正しい!」と猿山のバウトが勃発するだけなので、総合的に考えて指摘するだけエネルギーの無駄でしょう。

ともかく。相手が自信満々で言ってることに関しては「そうですね」と返してあげればよい。その肥大した自尊心をこれでもかとばかりに満たしてあげてください。決して導火線に着火するような真似はしないでください。その人の間違いに関しては傍観者でいてください。あなたはただの観客です。相手の舞台の主役にはなれない。そしてそれはあなたの人生の舞台には何の影響も及ぼさないのです。

なお「感情を顔に出すこと」についての補足

僕は新人の味方でもなんでもありません。それに感情を顔に出すというのは得策じゃないと考えています。気持ちはわかるんですけどそれはトータルで考えてマイナスです。喜びや楽しさの感情を表出する分については、TPOをわきまえればいくら出しても構わないと思います。その場に「てめぇ浮かれてんじゃないよ」というパーソナリティがいる場合は、ちょっと調整が必要かもしれません。ですが、少なくとも怒りや哀しみを表面に出すよりはずっとマシです。

しかし、なんというか、僕のような思考を持ち続けて生きているとそのうち無表情がデフォルトになります。怒りや哀しみを抹消した結果、その対となる喜びや楽しみまでもが消失してしまったのです。この際だから書きますし特定されても構うもんかって感じなんですけど、例の顔に出す後輩に色々と諭していたところ「じゃあポジ熊先輩は感情の起伏を表に出さないのですか?それで喜びや楽しみはあるんですか?」と問われ「ああ、喜びや楽しみね。なんだっけそれ?」と素で答えたところ「それは生きているとは言わないんじゃないですか!?」と暑苦しい禅問答をふっかけられたことがあります。

うーん、言うなこいつ。やるじゃないか。確かにそうだ、僕は感情を表面に出さずとにかく相手を「そういうもんだ」と見てあらゆることを手放そうとした結果、光と影よろしく怒りや哀しみを虚無に葬り去るかわりに抑揚のない人間になってしまっている。おお、凄い、ここまで自分の感情を俯瞰視させてくれるとはやるじゃないか後輩!などと忘れかけていた熱い気持ちが約5分間浮上したあとに無意識のプールに溶け込んでいったわけですけどね。

ああ、そうですよ、言ってしまえば感情を捨てる必要があるんです。そうじゃないとあらゆることに評価を下してしまう。一時停止を無視して突っ切る車に苛立ちを覚えてしまう。右折車線から曲がろうとするご老人のハードボイルドなバイセコーにまでいちいちイライラしなければならない。そんなの疲れるじゃないですか。だったらその感情、捨てちまいなァ!って話なんです。あちらを立てればこちらが立たず。今夜のコチラは元気です。あ、蛇足でしたね。つまり嬉しい楽しい大好き!って抑揚のある人はその影となる怒りや哀しみの感情起伏も激しくなるんですよ。

どっちがいい?楽しかったりウキウキすることが多い反面、怒りや哀しみも同じくらい味わう人生と、感情の起伏を捨てて諦念に至り、イライラしないかわりにアパシー状態になる人生。さぁ、あなたはどっち?僕は後者を選んでしまったようです。だって、あまりにも修羅の道を行き過ぎたのですから。

でも、人間らしいよね

  • 嬉しかったら喜んで
  • 腹が立ったら怒って
  • 辛いときは哀しんで
  • 楽しいときは笑えば良いと思うよ

喜怒哀楽。子供の頃は何の警戒心もなく表現していたこの感情。いったい、どこに置いてきたのだろうか。社会に出て、揉まれて、いろんなことを経験していくうちにいかにうまく生きていくかを考えて考えて考え抜いた末に喜怒哀楽を捨てた社会人、それがミー。社会に収斂された結果がこれなのか。これが今の場所で生きるということなのだろうか。なーんて考えてるとちょっと寂しい感じになりますね。

若い頃っていうのは、特に社会に出たての頃はまだ人間らしいのよ。自分が気にくわないことには腹が立つし、楽しいことは楽しいんです。それを慣例だとか風習だとか年功序列だとか不文律だとかそういった類のものが殺してしまうのだと思います。自己を表現することを許さない社会なんですね。

「じゃあ職場以外で喜怒哀楽を解放できる場所を作ればいいじゃん」という意見については至極最もであり、願わくばそうありたいのです。しかし、僕はそれができなかった。生きるという選択をするにあたり最大のライフラインは職場で、そこには命をかける必要があった。だから多くのパワーを注いだのです。その結果、プライヴェートまでその調子が継続してしまってこのような有様になっているのです。昔っから不器用でしてね、公私の区別がつかない。仕事場に私を持ち込むというよりは休日に仕事を持ち込んでいるとも言えます。このスタンスが、ずっと続く感じ、スイッチが持てない。

後輩を指導する皆様方にあっては、仕事場で感情を顔に出すことについてはそれが後輩の損になる状況であれば適時正してあげてください。でも、それは人間として間違ったものではなくむしろ人間らしさの本質であること、またプライベートにおいてその感情を解放できる場所を作ることの重要性も説いてあげてほしいと存じます。

というわけで今回はここまで。

明日も仕事場で仮面着用。

 

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