こんばんは。
管理人は気を遣います。
自分で言うのも変だけど、あえて言います。
めっちゃ気を遣います。
昔はこんな自分が嫌でした。気疲れの毎日で辟易することも珍しくなかった。
でも、今は違う。気を遣わなくなったわけじゃなくて、むしろさらに気を遣うようになった。でも、心が疲れることはなくなったんです。
他人に気を遣いすぎて疲れてしまう人へ、少しでも自分の考え方を知ってもらって、実践して心が軽くなれば嬉しいなと思い筆を執った次第です。
どうかしばしのお付き合いを。
子供のころから
物心ついたときから。
親に、友人に、先生に。
ありとあらゆる人に気を遣う。
顔色を伺うともいう。
本当に気になる。
主成分は「自分が嫌われたくない」だったと思います。
とにかく嫌われるのが嫌。
だから相手の望む言動を探る。ひたすらに。
それでも、相手が望まない反応をしてしまった際には「やってしまった。」と自己嫌悪。
こんな時期がずーーーっと続きます。
ゲームに明け暮れた小学校時代、悪い友達とイタズラをした中学校時代、女子とまともに話ができななかった高校生時代。
気を遣う自分が嫌いだった
わかるんです。
「あ、今は気を遣っているな」ということが。
そのたびに、そんな自分が嫌になる。
どうして嫌になるか。
それは他人の顔色を伺って気を遣うということが恥ずかしかったからです。それは弱い者のやること。強い者はもっと胸を張って他人の反応なの気にせずに振舞うものだ。でも、自分は弱い。だから、こんなに気を遣ってしまうんだ。
こういう精神的作用が気遣いの度に繰り返されると、そりゃ誰かと1日一緒にいたら疲れますよね。自ずと不機嫌になる。不機嫌になれば気も遣えなくなって、それだ他人の反応が悪くなって余計に辛い思いをするという負の流れができてしまいます。
大人になって「嫌われる勇気」という本を手に取りました。
一言一句、むさぼるように読んで「これが自分に必要なんだ」って、曇天から一筋の陽光が差し込むような心境でした。
これを実践すれば、他人に嫌われても平気なメンタルを獲得できるんだ!
でも、内容がそもそも違いましたね。アドラー心理学は、そんなにペラペラな学問じゃない。共同体意識の獲得に一助となることがこの書籍の最大の魅力であると、読後数年を経た今では考えてます。
というわけで書籍を曲解して自分の中に落とし込んだつもりで生活してみましたが、やっぱり嫌われたくはないし気を遣ってしまう自分がいる。
これはもう、どーすりゃ良いんだろ。気を遣わなきゃ不本意だし、気を遣ったら疲れるし。もしかしたら出口のない迷宮のようなもんで死ぬまでこの苦しみは続くの?なんて思いつめちゃうこともありましたわ。
自分は「気を遣う個体だった」
そうか。
何を今まで勘違いしていたんだろう。
どうして抗っていたんだろうか。
そもそも自分は
「気を遣う個体だったんだ」
この「個体」というのはどこか無機質に感じるワードですが、人間を含めありとあらゆる生物または概念に対して多様性を認めようと考えた際に浮かび上がってくる、カテゴライズできない個性を指す言葉としては適切だと思います。だから今回も自分のことを指すにおいても「個体」っを使います。
そう、生来的な。
オギャーと産声を上げて肺の弁が開通した、いやもっと前か、母親のおなかの中で育まれている間に獲得した、あるいは生前から約束されていたか。
自分は生まれつきの気遣い屋だったんですね。
もっと、もっと早くに気づいてあげればよかった。
こんなにも自分を苦しめる必要はなかったんです。
「気遣い屋」なんてちょっと見栄を貼り過ぎですね。生まれつきの八方美人!これでもOKです。似たり寄ったりですから。
認めてからの思考
気を遣う、これは自然なこと。
何を迷うことがあろうか、気は遣ってナンボ。
弓兵が弓を使うことに、なにを躊躇しているのか。
むしろその道を究めるべし。
生来的に分化されていた自分の「気遣い」というスキルを、研ぎ澄ませるまで研ぎ澄ませて、とことん進んでやろうじゃないの。
今際の際まで気を遣って、この世を去ってやる。それで何の悔いがあろうか。
もう、開き直りですね(笑)気を遣うことにしたんです。いや、「気を遣わせてもらうことにした」のほうが適切かな。
こうすることで自分が生来持っている特徴を最大限に活かして進むことができるじゃん、と。
ドン引きされても結構です。「そこまで気を遣うことは、ないんじゃない」と心配されることも多々あります。でも、その心配はご無用。僕は受け入れた。気を遣う自分を受け入れた。もう、否定はしない。むしろ肯定だ。僕が気を遣うことは、ポリシーであり美徳であり「生きる」ことと同義なんだ。
自分を肯定すること
落としどころは単純ですが、自分を肯定すれば前に進めるってことです。
もしかすると、あなたが自分を嫌いになる要素、それは生まれつき持ったものなのかもしれない。だとしたら、そこを認めてやらないと下手すりゃ死ぬまで苦しみ続けることになりますよ。それを望みますか?
もし、それを望まないのなら、思い切って飲み込んでやりましょう。
難しさは孕みますよねー。いやね、自分が生来持っている癖が「人を殴ること」だとして、それを肯定してしまっても社会で上手くやっていけるわけ、ないじゃないですか。だから、なんでもかんでも一概に「自分の癖を肯定せよ」というのは乱暴かな。
社会とのすり合わせ次第で。それが心配を呼んだとして社会的に受け入れられる癖だったとしたら、肯定するのもまた生きやすくなる術なのではないか。こんなところでしょうかね。
自分の癖は「気遣い」です。これは本人が疲れようとも、あまり周りにダメージを与えたり不幸を生産するものではない。だから、僕の思考の切り替えは生きやすさに直結したのだと思います。
最後に
手放しで「気遣いMAX修羅の道」ができるわけじゃない。
やっぱり気遣いはエネルギーを使いますからね。
だから、充電が必要です。
各々、自分がやっていて元気になることを生活に積極的に取り入れてください。
たとえそれが多少の不健康なコンテンツでもまぁ生きやすさには代えがたいでしょ。
僕は気遣いパワーの充電方法としては
- 一人でいること
- 運動
- マインドフルネス
かな。これさえ欠かさなければ、いっつも気を遣っていられる。
中でも「一人でいる」は必須ですね。なにせ他人といると自動的に気を遣ってしまうシステムが起動してしまうので。
あなただけの心の調律方法、見つけて下さい!