人間は禁煙しなくても平均寿命近くまでは、どっこい生きるのが普通というイメージがあるし、別にたばこを吸い続けても50代で亡くなるような致命的なものではないのだろう。だから、「いますぐに、やめなければいけない」という真剣みに欠けるのは確かなわけで。
緩やかな自殺、それが喫煙。寿命を縮めるインパクトは小さいけれど、でも、確実に体に悪い煙を吸い続ける行為は、緩やかな自殺と表現しても差し支えはないはず。
人は誠に矛盾した生き物で、健康のために野菜中心の生活を送り塩分を控えるなどの行動をとりつつ、酒やたばこは嗜む場合がある。この組み合わせ以外でも「え、普段それに気を付けているなら、まず止めるべきはコレじゃね?」というものは、往々にしてあろう。
体に悪いものを摂取するのなら、毒を食わば皿までの心意気で、ほかにももっと体に悪いものを積極的に摂取するようなロックな人生を歩めばよろしいのだが、そうもいかないのだろう。
体に悪いものを摂取するための健康な体を準備する、という、冷静になれば頭を抱えるような矛盾を内に秘めた存在である我々は、喫煙行動を肯定して「まぁいいじゃん、別にたばこ吸ったってさ。個人の自由。他人に迷惑かけなきゃOKでしょ?」となりがちなのだが、どうも個人的にはこれを肯定はできない。
べつに、それは喫煙じゃなくてもいいだろう。たばこが嗜好品というのなら、今すぐにでも止めることができるはずである。だのに、やめられない、結局のところ、たばこは依存症なのである。国が公式にマリファナを販売して、使用した国民が「俺は好きで吸ってる。別にこんなものは麻薬なんかじゃないよ」といっているようなものなのである。
国(たばこ会社)が喜ぶだけ。喫煙行動というのは、端的に言うとこれに尽きる。依存症の仕組みを利用した薬物ビジネスを展開している巨大組織の罠に、喫煙者はかかってしまっているのである。そして、ネット上で禁煙を広めようとするユーザーの前に「俺の喫煙を否定されてたまるか」と立ちはだかる。
「俺の喫煙」はあなたの能動的な意思によるものではない。ニコチンという薬物が脳を改変してしまい、そもそもニコチンなしで十分に幸福感を得られていた脳を、ニコチンなしでは楽しめないものにしてしまった結果なのである。喫煙は依存症である。自分で覚悟して決めたものではない。薬理によるコントロールを、脳が受けているという厳然たる事実を忘れてはいけない。