毎晩、一人の夜を越していて想像するのは自分の死です。もし、今、自分が死んだらどうなるのか。こういう想像、しませんか?
もし今死んだら
僕は幸いなことに会社員ですので、出社時間に出てこないのを不審に思った会社の人間が僕の家を訪れ、鍵を何等かの方法で開けて家の中に入ってくれると思います。そこでは冷たくなった僕が横たわっていることでしょう(もしかすると座っているかも)。
これで腐敗は免れます。今、社会で問題となっている「孤独死」の現実的な面として腐敗による汚損が挙げられます。もし、腐敗が進行した遺体が発生し、そこを今後も使用するとなれば、特殊清掃員による通常の掃除では落ちない汚れや臭いを落とす作業が必要になりますが。でも、その心配はない。
会社を辞めたら?
いちおう、定年退職まで頑張って働くつもりですけど、それ以降や万が一辞めた場合にはどうでしょうか、誰も見つけてくれる人はいないんじゃないかと思いますね。少なくとも、1週間は経過してしまう。夏場だと腐敗するには十分な期間です。
僕としては死以降はどうなるのか想像もつかないし考えても無駄だと思っていますが、その後の社会のことは、やっぱり考えないと駄目だろうなーって。それくらいの想像ができる大人になりました。両親に感謝ですね。
腐敗を免れるために
腐る前に焼いてもらう手段として、ずっと前から考えていたことがあります。それは、体内にマイクロチップを埋め込んで、心拍数が0になったら契約する事業所に通報するシステムです。
似たようなシステムは現時点でもありますね、例えばポットのお湯を沸かさなければ、お知らせが飛んで安否確認をする、というものです。けど、これよりももっと現実味のある、倫理観も問われかねないですが確実な方法、それは生体内へのマイクロチップ埋め込みです。
希望があれば、心停止から24時間後に通報、もできるように。こうすれば蘇生確率は限りなく0%に近づくはず。半端に活かされて生殺与奪権を他者に奪われるくらいなら、いっそ自ら死を選ぶというのは、尊厳死の分野に通ずるものがあるでしょう。
法的なこと
法律関係は門外漢ですので、あくまで想像に過ぎませんが、どうも我が国では自殺は罪に問われることはないようです。しかし、生体内マイクロチップ埋め込みを委託した業者はどうなるでしょうか。
助かる可能性のあるタイミングで心停止が起きても、システムの仕様でそれを見逃し、24時間を経過してから関わる、というのは解釈によっては「自殺の手助け」にもなる得るのでは。
このシステムが社会に出回るには、孤独死について真正面から向き合い、孤独な状況にある当事者を含めた人が参加する議論を重ねに重ね、慎重な運用をしなければいけないのかな、という予感がします。
想像するのは簡単ですけどね。法的なこともそうですし、道義的にも考えなきゃいけないことが盛りだくさん。
縁に恵まれれば越したことはないが・・・
縁。孤独死を語る上では避けて通れないのが縁です。ハートウォーミングな物語を紡ぐこともあれば、骨肉の争いをうむ火種にもなる。それが縁。もちろん、家族の縁だけじゃないですよ、友人知人や隣人を含めたものを縁とします。
これに恵まれていれば、越したことはありません。僕も、親や兄弟に恵まれましたし、現時点で良好な関係を築けていますから、心配はありません。両親が亡くなれば、あとは兄妹で力を合わせて生きていくことになるでしょう。つまり、たいへんに恵まれた強運の持ち主、いうことになります。2回結婚して2回離婚した、とか、些細なことに思えるほどの強運です。
しかし、世の中にはこんな恵まれた人ばかりじゃないです。子は親を選べないし、逆もまた然り。色々と複雑な家庭環境で育った人は、社会に出てから親兄弟と音信不通になる、なんてことも珍しくないはずです。
こういう人たちに「縁を大切に」と伝えても、パっと来ないんじゃなかろうかと。縁に助けられた経験はなくても、しがらみで辛い思いをした記憶は生涯、拭い去ることはできない。これでは伝わらないのも仕方ないでしょう。
じゃあどうするか、諦めるのか、となりそうですが、あとは国家や福祉の枠組みで拾い上げていくしかないと思います。はみ出して食うに困って路頭に迷わないように、福祉の体制を充実させることは重要です。だから、福祉施設の建設で紛糾する自治体などは、貧困の現実や福祉制度についての啓発が必要。
ひとりが好きな人は?
繊細でわがままで他人に気を遣いすぎて疲れてしまう人は、どうしたらいいのでしょう。誰かと住むなんて、想像しただけで寒気がする!といった類の人です。僕のことなんですけどね(笑)こういう人たちのスタンスは、どうしたらいいのか。それと孤独死との関係です。
さきほど述べた通り生体内マイクロチップ案は、どうですか?基本、ひとりでのんびりと暮らして、心停止になったら自動で通報してもらう。これで荼毘に付してもらうことが可能になります。死して社会に迷惑をかけるということは、なくなるでしょう。いい案だと思いますけどね。
それと、孤立と孤独は違いますからね。基本、プライベートではひとりでも、他所では人とのお付き合いがあって、笑って過ごすことは必要です。脳の刺激にもなるし、認知症にもなりにくくなるはずです。人とのかかわりを断て、という教唆ではなく、自分一人の時間も大切にして、死後のことも現実的に考えつつ、生きようじゃないか。僕はこういうことを言いたいのです。
おわりに
ひとりで死ぬのが問題だから、嫌でも誰かといなきゃいけない、というのは、ひとり好きには結構地獄感あります。不本意な生き方で、失意のうちにこの世を去るかもしれません。人生の終わりが、そんなことでは、悲しいじゃないですか。終わりよければすべてよし、という言葉もありますけれど、自分の人生の集大成は、生きたいように生きて、望む形の死を迎える。これくらいの権利は、保証してもらいたいなぁなんて思いますけどね。自分だけじゃないです、もちろん、周りの家族や関係者も関わってきますからね。「俺は死にたいように死ぬんだ!」ってのは、確かに身勝手かもしれませんけど、身勝手になってしまう原因はコミュニケーション不足でしょ。自分の死生観をあけすけに語って、臭いものに蓋するようなスルーをしないで、死と真剣に向き合って、縁のある方々と話し合う。こういう場も必要なんじゃないですか。それが叶えば「あの人の望むように死ねたね」って、変な禍根を残すことはなくなるでしょ。
あ、すり身キムチ鍋が出来たので、一人鍋してきます。
またねー。