羆の人生記

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「配られたカードで勝負するしかない」は時に人を傷つける

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「配られたカードで勝負するしかない」って、日常的に何の違和感もなく使っていた。この記事を見るまでは...

 

anond.hatelabo.jp

 

使いどころは大抵、自分より有利な立場(財産や身分など)の対象に対して、負け惜しみに近い形だったように思える。

 

他者に対しては相手の置かれた境遇が、そこに至るまでにどんな変遷があったのかをすべて知っているわけでもないし、失礼にあたるかなと思って使っていなかったのだけど、それは幸いだったかな。

 

ブコメにもあるけれどこの「配られたカードで勝負するしかない」というのは、ある程度の手札がある人が使う言葉なんだろうね。例えばロイヤルストレートフラッシュではないにしてもフルハウスくらいは揃ってるよーとか。

 

配られたカードは両親ガチャよろしくお金持ちあるいはそこそこ中流家庭に生まれて衣食住に困らず育ってきたのであれば有利なものであるだろうし、そうじゃなしに貧困家庭や毒親だった場合は手札はブタになってしまうだろう。

 

この匿名記事の書き手はきっと、あまり恵まれない境遇で育ってきた可能性がある。家庭か、それとも容姿やなんらかのハンディキャップがあったか。

 

配られたと思われるカードはもはやカードではなく、そもそも配られてすらいないという認識なのかもしれない。加えてゲームに参加したつもりもないという。この理不尽なゲームの世の中に、勝手に巻き込まないでおくれよ、と言いたいのかもしれない。トラバの生まれた時点でゲームスタートというのは、無慈悲ではあるがこれはこれでその通りなのだとも思う。

 

自分が持っているものに感謝をし、高望みせずに足るを知る生活を送って徳を積むような人生を歩めるのであれば、その座右の銘として「配られたカードで勝負するしかない」を置いておくのは不自然じゃないというか、かどは立たないのであろう。しかしながら、他者が何らかの困難に直面してそれが自己責任などという空虚な言葉ではとてもではないが慰めきれぬ悲惨なものであるならば、件の言葉は決して投げかけるべきではないだろう。「お前の手札で物事を語るなよ」と言われれば言葉に窮するだろうし、デリカシーがないとのそしりを免れないだろう。

 

とどのつまり、こういった言葉が輝きを失うとき、誰かの心を著しく傷つけてしまうときというのは決まって「自己責任」がちらつく時だ。今の世の中が、それを助長している。「お前の配られたカードは自己責任だ。だから、それで勝負するしかねえんだよ」と顔面キックをかましているあなたは、自己責任という名の釘バットを得物にしていることを自覚しなければならない。

 

気を付けなくては。自分の配られたカードに満足して、それで戦っていく決意表明をすることは誰も静止はしないし、おおいにやってくれて結構だ。しかし、それをひとたび誰かに向けた場合は、それなりの覚悟が必要だ。はっぱをかけるつもりで言っているその一言が、相手の心の臓をこれでもかとばかりにえぐっているかもしれないのだから。返り血を浴びる前に、想像力を働かせたい。