羆の人生記

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本「教誨師」で死刑制度・死刑囚を考える

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「教誨師」という本を読んだ結果、

  • 死刑制度
  • 死刑囚

についての価値観が自分の中で変化したのを感じます。

是非とも読んでもらいたい一冊です。

なお、教誨の意味は以下

受刑者に対し、徳性(道徳をわきまえた正しい品性。道徳心。道義心[5])の育成を目的として教育することをいう[1]。

教誨(Wikipedia)

教誨師とは?

僕が教誨師と接点を持ったのは一本の映画からです。それは中居正広主演の戦争映画で、死刑になる直前、中井演じる主人公に最期の言葉をかけているキリスト教の教誨師がやけに印象に残っていました。

それから長い期間を経て、本「教誨師」に何気なく辿り着く。Amazonサイトでおすすめで表示されているのをクリックした、という、本当に何気ないきっかけでしたね。

さて、教誨師とはいったい、どのような制度なのでしょうか。簡単に調べてみますと、日本における教誨師の歴史は

  • 1908年(明治41年)3月28日施行 監獄法第29条に基づいて新設
  • 同法は90年近くの長きに亘って存続
  • 2006年(平成18年)5月24日 監獄法改正、受刑者処遇法へ
  • 未決拘禁者と死刑確定者(死刑囚)の処遇についての規定だけ現代化から置き去り→未決拘禁者と死刑確定者の処遇が問題視
  • 2006年(平成18年)6月2日 受刑者処遇法改正法 成立
  • 刑事収容施設法に改題
  • 現在の教誨師は刑事収容施設法の第68条を法的根拠としている

このようになっておりまして

教誨師の宗教別の割合は、多い方から順に、仏教、キリスト教、神道であり[8]、それ以外に、天理教、金光教、大本など新宗教諸派の教誨師もいる。

教誨(Wikipedia)

仏教が最も多いようですね。

なお刑事収容施設法第68条とは以下が条文

(宗教上の儀式行事及び教誨)
第六十八条 刑事施設の長は、被収容者が宗教家(民間の篤志家に限る。以下この項において同じ。)の行う宗教上の儀式行事に参加し、又は宗教家の行う宗教上の教誨を受けることができる機会を設けるように努めなければならない。
2 刑事施設の長は、刑事施設の規律及び秩序の維持その他管理運営上支障を生ずるおそれがある場合には、被収容者に前項に規定する儀式行事に参加させず、又は同項に規定する教誨を受けさせないことができる。

http://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=417AC0000000050#354

本の内容

長らく教誨師を務めた渡邉普相(以下「渡邉」と記載)への長期インタビューを通じて、渡邉の生まれから教誨師になるまでの道のり、教誨師になってから死刑囚との交流と別れなどを記載したものです。 

渡邉の生まれから広島での被ばく体験も壮絶なものがありますが、教誨師になってからの死刑囚との心の交流や修羅場、自身がアルコール依存症になるなどのエピソードが、本を読む者を惹きつけてやまない一冊になっていました。

読み始めると、読み切るまではほかのことが手につかないくらいのエネルギーを持っています。その中では、少なからず心が揺れました。特に、死刑執行のシーンは、自分がこのまま読み進めて果たして正常な心でいられるのだろうか、と心配になるほどでしたね。

感想

僕は大人になるまでは、死刑囚に対して「死んで当たり前」とか「穢れた不要な存在」などのイメージを持っていました。

誰かを殺めたのだから、自分も同じ報いを受けるべきだし、死刑制度廃止なんて、もってのほかだという考えに疑問を抱いたことはありませんでした。

しかし、大人になり、世の中の幸不幸を見聞きし、色々な考え方を聞いたり本で読んだりするうちに、犯罪を犯す人は好きで犯したわけじゃなく、生まれや育ちによる運もあるのだろうな、という考えも自分の中に生まれたのです。

富と貧困については、持論として「貧富の差は運次第。幸運な人は不運な人を足蹴にせず、逆に救いの手を差し伸べる心を持ってほしい。不運な人はどうか心を強く持って、いつかこの国が福祉の充実する民度の高い国になることを信じて頑張ってほしいし、選挙権を最大限に使って風を吹かせてほしい」というのがありまして。

これが犯罪についてもトレースされたというか、同じような考えに至るわけですね。死刑囚も、生まれと育ちで、運悪く犯罪を犯してしまった。そして、司法制度により極刑を言い渡され、死刑になるという運命を背負った。だから、人としてクズだとか生まれるべきではなかった、とかそういう問題じゃないと思うんです。そういう運命であり、運であった、ということです。

もちろん、遺族感情というのは無視できないと思います。もし、僕が大切な家族を殺されたら、この持論を崩さない自信はほとんどありません。極刑を望むでしょう。ひとかどの人間ですから、きっとそうに違いありません。大切な人を殺された人に「それでも罪びとを恨むべからず」というのは、かなり難しく綺麗ごとの極致なのであろうな、とも考えます。

・・・しかし、死刑制度廃止と、犯罪者が心の底から悔いて改心し、真っ当に生きる道を見出すべき制度の確立も必要な視点なのだろうなって思います。これは個人的な感想だし、この「教誨師」を読んだからこそ、こういう考えに至るわけですけど。

 

さて、肝心の本の感想ですが、渡邉が個性の強い死刑囚たちと心を通わせる過程が活き活きと描かれていて、脳内で再生が余裕です。

いろんな死刑囚がいます。執行に怯える大男、飄々としている男、死刑になるわけがないと最期まで信じ続けた女、サイコパスであろう男、などなど。

本の中である教誨師は「死刑囚で本当に死ぬべき人はほとんどいない」と述べています。これ、現代のSNSで言ったら猛烈に炎上しそうですね(笑)

どういうことかというと、心を通わせるうちに死刑囚の彼ら彼女らもひとりの血の通った人間であり、生い立ちや性格を考慮し、かつ改心していく姿を見るうちに「こいつらはなぜ、死ななくてはならんのか」という境地になるようです。

教誨師と死刑囚が面会し、心が通っていく描写は、このことを如実に伝えています。本当に人間らしい、というか。死刑囚だから頭がおかしい、とかそんなことはないんですよね。

 

さて、いよいよ刑の執行となるわけですが、これがもう修羅場です。教誨師にとっては、心通った彼らが、目前で絞首刑になるのですから、心穏やかでいられるわけがない。渡邉も初の執行立会いでは、何も考えられぬほどになったくらいに、その場面は壮絶に描かれています。

人を殺すわけです。レバーを引いて、人を殺す。昔は、死刑囚の目の前にレバーがあって、刑務官がそれを操作して執行していたようです。涙を流し、震えながら刑を執行する刑務官。どうですか、みんなはこれを冷静にできますか?自分の手で、人を殺めることができるか。きっと、想像もつかないはずです。

渡邉は「人殺し」と言っていました。それはちょっと、表現としてはいかがなものか、と言われても「だって、人殺しじゃないですか」と述べる。そうですよね、刑の執行、とはいっても執行するのは人の手だし、それは殺人ですから。

世間で犯罪者に対し気軽に「死刑!死刑!」と騒ぎ立てる人は、誰かの手でそれが執行されるのであろう、という想像がついてないのだと思います。そんなに騒ぐなら、あなたがレバーを操作すればいいじゃないですか。僕はそう思います。刑の執行とは、それだけに重いのです。人ひとりの命を絶つ、という行為がいかに重大であるかは、想像に難くない。

 

刑の執行を見世物としてドラマチックに描いているのがこの本の魅力、では決してありません。渡邉が死刑囚と心を通わせる過程で、死刑囚たちがどのように考えるのか、逡巡するのか、そして執行を迎えるのか。その記録を見ることで、人為的に命が断たれる人間に相対する教誨師の壮絶さや、死刑囚の人間性を垣間見ることができる。これがこの本の最大の魅力であり、ポイントなのだと思います。

まともな精神状態では、やれない仕事でしょうね、教誨師。渡邉いわく、真面目な人間は心を壊すとのことです。多少、不真面目なほうが向いている、と。うーん、たしかにそうかもしれませんが、本当に不真面目な人に向いている、というより一周まわって不真面目な人くらいじゃないと務まらないんじゃないかと思いますね(笑)

 

印象に残っているのは、幾年も教誨師として経験を重ねた渡邉が辿り着いた場所というのが

ここですね。真摯に、相手の話を聴くこと。これが何よりも肝心である、と。世の中の数多のコミュニケーション術が陳腐に思えるくらい、核心をついていると思いませんか?

死刑になることが確定した人たちへの教誨、その究極ともとれるコミュニケーションの果てに、いったい何が待つのか。あるいは、何も待ってはいないのか。渡邉は、どう考えて死んでいったのでしょうかね。

きっと、それぞれ心の中に、答えはできるんでしょうね。「これ」という正解なんぞ、ない世界なのかもしれませんね。

死刑制度・死刑囚

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死刑制度は必要か、不要か?

僕はこの本を読んだからといって、答えを出すことができませんでした。「必要」とも「不要」とも言えないんです。どちらにも決められない弱い心なのだと思います。

遺族のことを考えると「不要」と気軽には言えないんです。誰かが最愛の人を殺された場合に、のた打ち回る地獄のような苦しみを肩代わりしてあげることなんて、できっこないですから。そこに「死刑はよくない」なんて軽々しくは、言えないです・・・。

でも、死刑囚たちのエピソードを見ていて、必死に改心して心を改め、読経と写経と謝罪の日々を送るところを見ていたら、「彼らは殺すべきだろう」とも、思えない。本当に心を入れ替えて遺族に謝罪を続け、十字架を背負ってもなお生き続けて世の中のために頑張り続けることができるのなら、あるいは贖罪の機会を与えるのも決して間違いではないような。そんな気もするんですよ。

 

どっちかに、決める必要は、ないんだと思います。もちろん、制度として決めざるを得ないので、制度継続か廃止かは決めなければいけないでしょう。けれど、思想的に自分がそれを決める必要はないんです。そう簡単に決められることじゃない。

大事なのは、死刑制度や死刑囚について考える事、だと思います。考えなしに「殺しちゃえ」じゃなくって。遺族のことも、死刑囚のことも、執行に立ち会う全ての人のことも考えて考えて考え抜いて。この考え抜くことこそが不本意ではない、皆の総意として人間性が陶冶された上での結果を決められるようになる前段階ではないかと。

そういう意味では、この「教誨師」は死刑制度や死刑囚を考える上では非常に参考になるし、語弊を承知でいうなら「面白い」んです。考える材料を、僕たちに与えてくれます。

 

もし、この本を読んだら・・・

あなたの感想を、聞かせてください。

 

<参考>

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最新の死刑統計(2018) : アムネスティ日本 AMNESTY

より画像引用