苦しくて、悲しくて、残酷で、美しい。そんな映画でした。
思い出すだけで、また泣いてしまいそう。
※結末や考察などネタバレを含むのでこの先の閲覧は注意してください。
こちらは予告動画です。
どんな映画?
トランスジェンダーで苦しみながら生きる、体は男性で心は女性の凪沙。
被虐児で自傷癖があり、コミュ障の一果。
この二人が出会うことで、お互いの人生に大きな変化が訪れます。
その変化は福音か?それとも破滅への道につながるのか?
終始バレエで彩られた物語の結末はどうなってしまうのか...。
詳細なストーリーは公式サイトをご覧ください。
トランスジェンダーの苦しみ
草彅剛が演じる、トランスジェンダーの凪沙。同じ境遇の人たちと働くニューハーフバーでバレエを踊り、日銭を稼ぐ日々。バーの来店客からは心ない声を浴びせられて傷つく一面も。
かたわら、病院に通ってホルモン注射を受ける。医師からは「思い切って性転換してはどうか」と打診されるが、まだ踏ん切りがつかない様子です。
両親には、自分がトランスジェンダーであり、ニューハーフバーで働いていることを一切話していない様子が描かれます。本来の自分を、両親にすら曝け出せない凪沙の苦しみが、この時点で伝わってきます。
さらに、ホルモン注射の副作用か、強烈な嘔気に苦しむ凪沙。家に駆けこんで吐き気止めと思われる薬を飲み干し、「なんで私だけ」と嗚咽。このセリフは、劇中で何度か耳にすることでしょう。そのたびに、心をえぐられる思いがします。
一果のバレエの才能を潰すまいと、道を外しても構わないとばかりに体を売ろうとする凪沙。しかし、あまりの生理的嫌悪で逃げ出してしまい、挙句に凪沙をかばった同僚が暴行の現行犯で逮捕されてしまう。
小学校では教員に好奇の目で見られ、就職先で形だけの「共感」という言葉を浴び、 極めつけは親に否定され、激しく泣かれる。
このように、劇中では凪沙のトランスジェンダーとしての苦しみがこれでもかとばかりに描かれていて、見ている僕たちの心をズタズタに切り裂いてくれるでしょう。
被虐児、一果の成長
始めは、まともに返事もしない女の子。凪沙も、彼女のことを当初は「何を考えているかわからない」と苦言を呈していました。
しかし、バレエに興味を持ち、学校で親友ができ、凪沙と心を通わせていくうちに、一果は人間らしくなっていきます。
少しづつですが返事をするようになり、笑顔をとりもどしていく。そんな一果の成長を見るのもこの映画の醍醐味と言えましょう。
決してハートフルな愛情を一心に受け続けるストーリーではありません。親友を自死で失い、トランスジェンダーの苦しみを一心に受けてでも身を粉にして社会で戦おうとする凪沙に心を痛め、迎えに来た母親に再び搾取される日々。
一果は、色々な人たちの、決して軽くはない、時には命を賭けた期待や愛情を背中に乗せて成長していくのです。
見どころ
凪沙の優しさ
初めて会った一果に対して、冷たくあしらう素振りを見せつつも、カギの場所などをしっかりと教え、一果が困らないように配慮しています。
基本的に、凪沙は優しいのです。心のピュアな、本当に優しい人。だからこそ、悲劇的な結末を迎えた彼の、いや彼女の姿に見ている人の心はズタズタに切り裂かれるのでしょう。
一果の優しさ
一果も、凪沙に負けないくらいのピュアな優しさを持っていると思います。
初めて転入先の学校に付き添った凪沙を見て、教諭をはじめ生徒も好奇の目で凪沙を見ていました。
教室で一果に対し、クラスメートの男子が凪沙の容姿・風貌を揶揄する発言をします。すると、一果は椅子をそのクラスメートに投げつけてしまうのです。
まだ面識も浅い凪沙への揶揄を、見過ごせなかった。これは、一果の天性の優しさがなせることだったのでしょう。
このほか、劇中では一果の純粋な優しさをたくさん見ることができます。
凪沙の悲壮な決意
凪沙の決意は、いくつか見ることができます。
1つめは、体を売ろうとするところ。ニューハーフバーでは一果にバレエを続けさせることは難しい。ならば、道を外してでも自分の体を・・・!
しかし、生理的嫌悪により土壇場で凪沙は逃げ出してしまう。さらに、元同僚が凪沙をかばった末の暴行により警察に連れて行かれてしまうという結果になってしまいます。
2つめは、髪を短髪にして就職しようとするところ。本当は女性らしく着飾ざりたい。でも、社会はそれを容認しない。見た目は男だから、男性らしくしなければ、就職は難しい。だから、自分を殺して...
一果はそんな凪沙の姿に深く傷つきます。でも、それが凪沙の自分への深い愛情と気づいてからは、バレエに一心に打ち込むなど凪沙の気持ちに答えようと頑張ります。
3つめは、一果のバレエコンクールで、一果が実母に抱きしめられているのを見て、性転換手術を受けようとしたこと。
「自分だって、一果の母親になれるんだ」一果への母性が芽生えていた凪沙が、二の足を踏んでいた性転換手術を受けるきっかけは、最愛の一果がきっかけとなったのです。
4つめ。実母に連れ戻された一果を救うべく、実家に戻って性転換手術を受けたことを親にカミングアウトしたこと。
このシーンは、もう、見てられないくらいに苦しかった。凪沙が女性になったことを受け入れられない母親。「病院で治してもらって!」と取り乱す。それを「病気じゃないから治らないのよ」と抱きしめる凪沙。
そして一果に対しては「あなたはここにいるべきじゃない。踊るのよ」と。実母の罵声を浴びつつも、傷ついた一果を見て精一杯の抵抗をします。帰り際には「私、女になったの。だから、あなたの母親になれるのよ」と。
総評
この物語は、僕たちに何を伝えたかったのでしょうか。
僕は、異性愛者です。だから、世間からは好奇の目で見られることはありません。なので、トランスジェンダーで苦しみ、社会に阻害される人たちの気持ちは、わかりません。それに、形ばかりの共感というものをするつもりはないですし、そもそも苦しみがわからないのだから寄り添いようがない。
けど、僕たちは男女やそうじゃないもの全て含めて、性別以前に人間なんです。男も女もLGBTも、みんな人間。だから、「かわいそう」とか「かっこいい」じゃなく、人として当たり前に接する必要があるんじゃなかろうかと。これは性別に限ったことではなく、社会的身分や門地、貧富なども関係ない。全員人間として、フラットに考えるべきなんじゃないかと思うんです。
この感想記事を書くにあたり、なかなか難しさがあるなとも感じました。主演の凪沙のような人が、もしこの記事を見ていたら。そこで傷つくようなことがあれば。それは凄く失礼なことだと思うんです。だから、できるかぎり、そういう感想を抱かれないように、配慮が必要なのではないかって。でも、この配慮というのもまた、差別の一種なのだとしたら、どうすればいいのかわからない。そういう究極的な問いをこの映画は投げかけているような気もします。
結末について。
凪沙は、一果に夢を託していたのでしょう。
子供の頃、海に行った時、なぜ自分は男性用の水着を着ているんだろう。どうしてスクール水着じゃないの?ずっと、その疑問を抱えたまま、社会で生きてきました。
「女性の体で生まれたかった」
苦しみ苦しみぬいて出会った、傷ついた無垢の少女、一果。彼女は、差別的な目で自分を見なかった。そんな一果に、凪沙は母親としての感情を抱き始めます。
「この子の芽を潰してはいけない」
時には体を売ろうとし、時には自分を殺して肉体労働し、最後には母親になろうと性転換まで行った・・・。凪沙にとって、一果は自分の心の美しさを体現したような存在だったのかもしれません。自分の命よりも優先するまでの存在になったのです。
凪沙の体当たりのカミングアウト、そして一果へのメッセージは、きっと実母にも届いたのだと思います。終盤では、一果の母親はかつての毒親の雰囲気は消え、明るくなった一果と心を交わせるまでに変化を遂げていました。
しかし・・・凪沙は死を間近に迎えてしまいます。
ゴミの山に埋もれ、排せつもまともにできない状態になってしまったのです。久々に訪れた一果は、そんな変わり果てた凪沙に「ごめんなさい」と繰り返し、涙を流します。自分のために母親になろうとした結果、命を落とすまでに衰弱してしまったことを、子供ながらに察したのだと思います。
なぜ、凪沙は瀕死になったのか?想像するに、性転換手術の後遺症で、陰部が感染症に罹患してしまったのではないか。不衛生な環境下で感染症が進行し、全身が侵されて敗血症になってしまったのではないかという見立てです。金魚のいない水槽に餌を入れてみたり、脳機能にも影響を及ぼしているところが描写されている。
なぜそのような状態が進行してしまったのか。性転換手術はしたものの、一果と離れ、社会との繋がりも次第に疎遠となり、栄養状態や衛生状態も悪く、自分の病態を冷静に見て通院の判断が難しいくらいになってしまったのかもしれません。あるいは、親にも自分の本当の姿を受け入れられず、社会に絶望して、まっとうに生きることが難しくなってしまったのか。
最後は、一果と海へ行き、そこで自分が幼少の頃にしてみたかった姿を、幻覚として見ます。楽しそうに波打ち際で遊ぶ少女。一果から、バレエで海外に留学するという報告を受け喜びの涙を流した凪沙は、一果にバレエを踊ってほしいと懇願します。
一果は踊ります。それを見た凪沙は、美しさに涙を流し、この世から去る。もはや未練はなかったのでしょう。
一果は、凪沙がこの世を去ったことを直感的に察したのだと思います。そのあとに海へまっすぐ進んでいったのは、きっと、凪沙を見送りに、行けるところまで行こうと考えたのでしょう。これが、凪沙との別れです。
海外でのコンテストのシーン。
一果の舞いをぜひとも見てほしい。
「見ていて」
一果はつぶやきます。
その踊りは、ありとあらゆる悲しみ、切なさ、そして愛を湛えたものになっています。回想される凪沙との心通わすシーンには、涙を禁じえません。
読後感というか、見終わった後にこれほどまで心をえぐられる映画って、なかなかないと思います。
草彅剛さん、凄い俳優ですね。評論家ではないので拙い表現になりますが、本当に凄いとしかいいようがありません・・・。男性ながら心は女性の主人公を、ここまで見事に演じ切るとは。恐れ入りました。
いやーまじで、実際に見てください。この映画は見ないと駄目。
ハートをがっつりえぐられる覚悟で劇場に足を運んでくださいませ。
「最期の冬」って、死を示唆していたんですね。
正直、僕は、凪沙にも幸せになってほしかったです。一果に夢を託して幸せだったのかもしれないけれど、もう少し自分の居場所を見つけて、些細なことに幸せを感じながら理解者に囲まれて、一果の活躍の報せを聞くような。そんな終わりが欲しかった。