羆の人生記

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本『認められたい』を読んだ承認欲求渇望ブロガーの雑感

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承認欲求と所属欲求で悩む人たちへの処方箋、書籍『認められたい』を読了したので、ブログと承認欲求についての雑感を述べます。

<書籍筆者紹介>

シロクマの屑籠

シロクマ (id:p_shirokuma)氏(以下「シロクマ先生」)

「私って何?」「褒められたい」について

「個人」を示すindividualが西欧から輸入されたのが明治時代。それまでの日本は共同体の中で助け合って生きてきたけど、バブル崩壊後に経済的成長停滞と閉塞感が継続する中で「私って何?」という、まるで紀元前ヨーロッパの哲人のような悩みが渦巻き始めたのがつい最近。

核家族世帯が減少し親をバックボーンにでもできず、不正規雇用者は増え続けて給料も上がらず。そりゃ「私って何?」なりますよ。生きている意味を感じにくい人が増えるのは自明の理でしょうねー。

僕は経済的にも縁的にも恵まれています、無ければ貧困を生むといわれる3つの要素(行政、親、知人)は全て持っています。でも、「僕って何?」は思春期から噴出しました。褒められたい、も常にあります。世相や時の学校教育にも影響されるのでしょうか、経済的困窮に関わらず個の魂を追い求める素地が現代人には出来上がりつつあるのかもしれません。

今の時代、どうしたらこの欲求と健全に向き合えるのか。それは「自ら共同体に所属感を抱くこと」ではないかと考えます。方法は至ってシンプル、自分で「私はこの社会の一員であり、役に立っている」と頭で考えればいい、ただこれだけでおおよその疑念は払しょくできます。承認欲求、所属欲求、ダブルで満たすことのできる発想です。

達観、とまではいきませんがこれを会得するには、他者とのコミュニケーションと合わせて少々の内省が必要です。内向きに考えて考えて、自分がどんどん縮小した結果、とある地点で特異点崩壊を起こして考え方をパラダイムシフトさせる。そうすれば視界がザーッと晴れる感じ。価値観のビックバン転換を起こさせる、と。これを手伝ってくれるのが各宗教の始祖が教えるもの、老荘思想、西欧哲学や近代哲学だったりするんです。

ま、講釈垂れてますけど僕は承認欲求を捨てきれません。シロクマ先生もおっしゃいましたが、社会生活を営んでいる健常者で承認欲求や所属欲求を捨てて生きている人はまずいない。例にもれず僕もその中の一人なのでしょう。

 

さて、ここからはブロガーらしく「ブログと承認欲求」の観点で考えてみたい。

 

ブログと承認欲求

はてなブログで1年半少々ブログを更新してきましたが、紛れもなく承認欲求を満たす場として機能させてます。更新した記事に対するはてなスター(足跡みたいなもの)やブックマーク、Twitterによる記事拡散などで脳内麻薬を放出してきました。

記事を更新するたびに、定期的にスマートフォンを開いて「レスポンスはどうかな?どうかな?」とか普通にやってます。承認欲求汁垂れ流し状態です。

ブログって自分の意見を全世界に公開する行為にあたります。その内容について他者から反応があるということは「認められた」という証左にもなりえるわけで、これが中毒的な魅力を帯びているのであります。抗えぬ魔力、承認欲求。ブログはその欲求ととても親和性が高いと感じます。

シロクマ先生は承認欲求を否定していません、むしろ良き方向へ進むために活用すべきだというスタンスで語っています。これを読んで少し安心しましたね、僕もブログで承認欲求を満たすことについては、自分の活力にして日頃の生活をエネルギッシュにかつポジティブに過ごせる原動力となるならば後ろめたい気持ちになることはないんだなって思わされましたもん。

・・・ま、とはいえ「アクセス増えない」「収益増えない」「読者増えない」などと初期の段階から嘆くことについては、そんな一朝一夕には結果は出ないよ、という最もなこともおっしゃってますので、ここらへんは身につまされる部分だなと感じます。

 

ブログと承認欲求。これについては賛否両論あります。なかには「君は承認欲求を捨てるべきだ」とのたまう方もいらっしゃいますけど、これは無理!人間なんだから認められたい欲求は少なからずありますって。根源から沸き起こる欲求を無理やり押さえつけるフラストレーションのエネルギーを考えれば、素直に自分の気持ちを認めて半ば開き直って更新していくくらいが丁度いい構えなんじゃないかなって思いますねー。

癌は、実力もないうちから過激な言説でブックマークを集め、半ば炎上に等しい様相でも「こんなにアクセス集めるなんて興奮しちゃう!」と錯乱してしまうブロガーが出現することではないかなと。急激な承認欲求の充足により、体験したことのない興奮が襲ってきて病みつきになってしまうのでしょう。

「癌は」なんて述べましたが、かつて僕もこのようなスタンスで耳目を集めるスタイルをとっていた時期があったんですよ。やっぱり、初期から注目が集まるというのは、快感以外のなにものでもありませんでしたよ。ほんとうに気持ち良かったです。でも、リテラシーの低さゆえに炎上して、今に至りますけどね。

 

俗間的なお話をさせていただくと「ブログで満たす承認欲求」というのはコスパが良い。自分で考えた文章をつらつらと書きたてるだけで他者の承認を得られるのです。ここに収入の何割かを当てる必要もありません、ネット回線とデバイスさえあれば、あとは無料でもそのような場を開設できるんです。

承認欲求が満たされない、現代の彷徨する若者たちには是非ともブログサービスに親しんでもらいたいなと考えます。ただ、リスクは承知の上で始めて欲しい、とも思ってますよ。承認欲求はシロクマ先生がおっしゃるように貯蓄ができない浪費型です。『進撃の巨人』の巨人たちよろしく、消化器官を持たずに手当たり次第に食い散らかしては次を食らう飽食の権化になりかねない。過激なパフォーマンスで承認欲求を求める炎の踊り子になってしまうことを懸念します。そこのリテラシーさえ身につければ、ブログってのはウェルカムなんですな。

 

ブロガーの承認欲求が終息に向かう条件

知名度が上がることが条件じゃないかなと感じています。

どんなに名文を生み出す才能があっても、それを世に広めるオーディエンスがいなければ知名度は上がりません。結果、人に認められるという現象は発生しないでしょう。別に僕が名文を生み出す才能がある、と言いたいわけじゃないです。ただ、それなりの読者数とフォロワー数を抱えてみて、初めて「目立ちたい」という欲求が薄れたことも事実なんです。だから承認欲求が終息に向かう条件として「知名度が上がる」とさせていただいた。

記事タイトル「承認欲求渇望」と銘打ちました、これには嘘はありません、現時点でも公開記事に対してレスポンスを求める自分がいます。嘘はつけません。やっぱり、スターやブックマークが付くと嬉しいですし、励みになります。記事を更新してその反応については読者に100%委ねる、という心境にはまだまだ至れません、道半ばです。ただ、いつ悟りの境地に達することができるかは検討もつかない・・・

でも、終息に向かってはいるんです、多分。というのも、開始当初よりもずっと更新記事へのレスポンスに対する枯渇感が薄くなってるんです。先ほども申しました通り知名度がある程度上がったことにより自分の中の満足感が上昇して、きっと緩和してくれているんでしょう、ネット上での承認欲求の充足に対する興奮の度合いを。

だから、ブログを初めて間もなかったり、またはある程度運営しててもいまいち知名度が上がらずに四苦八苦して承認欲求に縛られている人は、その苦痛を糧にして知名度を向上させ、緩和すべく奮闘されると良いのではないかなと。 

 

サラリーマンで所属欲求を満たしているってのも実はある

ブログでままならない状況になっても、それで閉塞感を感じることのない素地も持ってます。僕はブログで飯を食っているわけではありません。プロどころかセミプロでもないんですよ。れっきとしたサラリーマンなんです。本業があるんですよ。

専門性の強い職種ですから、スキルの質も求められるんです。だから自分の本業にかかる勉強も欠かせません。僕はソシャゲしたりテレビ見てぼんやりしたりする時間はほとんどありません。ブログ更新するか好きな本読むか本業のスキルアップの専門書を読むか。空白の時間はほぼないのです。

仕事場でも割合、頼りにされてます。何かの判断をする際には、上司同僚後輩に関わらず結構な頻度で相談に来ます。これは僕の所属欲求を満たすものです。誰かの懐刀になて、ピンチの際にいつでも出て行って問題を解決する陰の立役者とならんとすべく、普段は自己主張せずに会社に溶け込んでいるんですよ。だから、僕的には大満足なんです。

えっと、ここで言いたいことは、ブログで右往左往してしまう人というのはその他の活動で承認欲求や所属欲求をおろそかにしているのではないかな?ということ。本業があるならそっちをデタラメにこなしてはいけません。本業とブログは別。棲み分けはきっちりやりましょうってこと。

 

いつまでも認められる人になるためには?

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冒頭で述べたように、共同体に自分から意識を寄せる能動的な個の獲得を目指すのが理想と考えます。これを基本と踏まえて・・・

 

場当たり的なもの、例えば美貌で世の男性を惹き付けたり、はたまた期間限定的なサービス内において特定の地位を占めたり。そのような場での承認欲求充足はいつかは終わりが来ます。まさに場当たり的。しかし、このような若者が増えている、とシロクマ先生はおっしゃいます。

ではいつまでも認められるにはどうしたらいいのか?僕の答えは「良き方向へ進むこと」です。今まで自分と向き合う時間が少なかった人は、哲学の力などを借りて内省することをしてみてはどうか。

自分とは何か、世間とは何か、人との繋がりとは。誰かの役に立つとはどういうことなのか。自分なりの答えをこういった中から模索して焦点を当て、それに向かって進む。それを良き方向と信じて進む。これがいつまでも認められる人間になるための妙なのではないかと考えます。

賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶとビスマルクはおっしゃった。古代の知から学ぶには『老子』なども良き人生を歩む上での北極星になりうると考えますし、西欧の哲学者も数多の箴言を後世に残しています。ここらへんから学び取ることも少なからずあるのではないかな、と思うのですよね。

 

書籍紹介

ブロガー視点で雑感をつらつらと書かせていただいたのですが、ブログやってない現代人も「認められたい」という気持ちについて造詣を深めることのできる一冊となっています。 一読あれ。