こんなツイートが話題
昨日、夫と郵便局へ大量の郵便物を持ち込んだとき、郵便局員さんとの会話で自分の認知の歪みを自覚した。
— もる(認知行動療法@ADHD) (@ADHD__bot) 2018年6月14日
私は、1枚目のように捉えて自己否定までいきつく。認知の歪みで自己否定を繰り返すと、死にたくなる。
夫は、ナチュラルに受けとめるて、自分も他人も傷つけることがない。とてもよいと思う。 pic.twitter.com/31kd4IdeK9
わかるわー
程度の差はあれ、これをどう捉えるかでその人の認知歪み度が出る。
僕はおそらく、夫寄り。
ある出来事
職場において公衆の面前でおもくそ罵倒されたことがあって、その時はあまりにも熾烈で唖然としてしまったんだけど、時を経てこう考えるように。
「あの人は、あえて公衆の面前で僕を罵倒することで、他の人がこれ以上僕を攻撃しないように代表して嫌われ役を買ってくれたのだ」
と。
これを同僚に話したら「お前は頭がおかしい」と言い、ほかの同僚は「それは本当にお前のことが嫌いなんだよ」とも。
でも、僕の認知は、先ほど述べた考え通りなんですよね。「罵倒」っていうくらいだから、相手が言ったことは凄く失礼で、へたすりゃ訴えれば高確率で勝てるくらいの案件だったんです。
でも、良い方向で認知しなければ、おそらく抱いた憎悪は物凄いエネルギーを帯びてしまったと思います。丑の刻に神社へ行って人型に釘を打ち込んでもおかしくない、あるいは月のない夜に背後から忍び寄って天誅しても不思議じゃなかった。ただ、こういう思考は寝覚めが悪いじゃないですか。もしこんなふうに考えてしまうと、一生その人のことを恨み続けて生きていかねばならない。こんな人生はまっぴら御免です。だから、認知を強制的に正した(?)とも言えますね。
昔は歪んでた
学童期~青年期にかけては、それなりに歪んでましたよ。相手の一挙手一投足を、自分への攻撃と受け止めてネガティブに思いつめていた時期もありました。
もちろん、この時期は対人関係が上手くいくはずがありません。相手も「うわー、こんな捉え方をする人には近づかない方が良い」って思ってただろうし、こっちは相手を敵と認識するわけですから、重なり合う部分が発生しないのです。
どうして歪んでいたのか・・・おそらく、自己肯定感が持てなかったからでしょう。というのも、昔は虐められていたのです。肥満体型が災いして。日々、体型について揶揄され続ければ、さもありなん。
親が全面的に肯定してくれたかといえば、そんなことはなくて、ほんと時々なんですけど僕の体型について苦言を呈すことがありました。この時の無念は深かったですね。唯一否定しないと考えている頼みの綱の親にそれを言われるのですから、絶望みが半端じゃない。親は僕の将来(健康)を心配しての言だったのでしょうが、子供心には深く傷ついた。ですので、年頃の子を持つ親御さんは、どうか子供の全面的な味方であってほしいと思います。もちろん、甘やかすという意味ではなくね。
認知の歪みが正される過程
ダイエットで普通体型を得てから、やっと自信を持てるようになりました。痩せると今までひやかされていたことが一切消滅します。むしろ、かつての体型から今の激変に対する称賛まで得られることが増えたのですから、自分的には毎度高揚してました。
まぁこのように、なんらかのコンプレックスがある場合はそれを何かしらの努力で解消した場合に自信を持つとともに周囲の反応も変わって自分を肯定できるようになる(ことが増える)のでしょう。
「過程」としたのは、それでもやはり他者が放つ言葉に反応して歪んだ認知を持つことはそれなりにあったからです。自信を取り戻した、といっても変な自尊心やプライドというのは、なかなか捨てきれないものですね。
特に20代後半のイケイケな時期というのは「俺こそが正義」という根拠のない自信に満ち溢れる時期でもありますから、誰かが自分を少しでも否定しようものなら、それに全力で歪んだ認知で反応してしまうことは、仕方のないこと。若気の至りってやつです。
幾多の挫折を経て「認知が歪みにくい思考法」を編み出す
やっと本題ですね。
幾多の挫折・・・・ま、色々ありましたよ、公私ともども。で、そこからなんとか這い上がって復活してきた。一時期は「あいつはもう駄目だろう」と誰しもが考えていた状況から復活したものですから、今では変態不死鳥扱いです。
壮絶な経験は、プライドを殺します。へりくだったり、おもねるといった、卑しい性格になった、というわけではありません。何といいましょうか、人生における覚悟が座った、とでも言いましょうか。もう、なるようにしかならねえんだ、じゃ、ドーンといこうや、そんな心境。わかりますかね。
もう、誰に何を言われても、心の基礎がグラつくことは、ほとんどない。そりゃビックリすることもありますし、ドキドキもしますよ。ただ、パニックにはならん。だって、あらゆることが、起きえる事なんだなって、経験上学んでしまったから。そういう思考になるのです。
さらに、色々な書物を読むにあたり、仏教、禅の思想を知り、いよいよもって「認知」に対する思考が確固たるベクトルを帯びるようになる。
「認知は歪む。そして、正すことができる」
この解を心に落とし込む。そして先述の認知に至るわけですな。
さて、思考法ですが。
日頃心掛けていることとしてまず
「誰かに注意された」「指摘された」
ことについては
「自分に期待しているのだろう」
と考えるようになりました。
期待をしていなければ、間違ったことでも言ってくれません。無関心の姿勢を持たれます。しかし、言ってくれた。注意してくれた。ということは、まだ自分には伸びしろがある、と見てくれているのだな。これは嬉しいことだ、それには答えたいし、自分の成長にもつなげたい。こう考えるように。
口癖のように、後輩や先輩、上司には「気づいたことがあれば、何でも言ってください。言われないと理解が難しいし、言ってくれるうちが華だと思っています。遠慮は無用です」と。
だもんですから、僕の仕事には同僚や上司のチェックが入りやすいです。ほかの同僚がやったことなら、何も言われずに修正されるところを、「ポジ熊君のためだから言うよ、細かいことだけど」と、あえてコミュニケーションをとって僕に指摘をしてくれるのです。これって、すっごく有難いことじゃないですか?相手に時間を使わせてまで、自分の至らない箇所を遠慮なく言ってくれるのですよ。自分の気が付かない瑕疵を、可視化してくれるんですよ(ギャグじゃないですよ)。凄いことです、これは。さっきも言った「言われるうちが華」って、至言でしょ。
かくして、僕はアドバンテージを得ました。ほかの、プライドを捨てきれない人よりも、誰かが指摘してくれることで成長の足掛かりを得やすいパーソナリティを獲得したのです。そして、あけすけに話してくれる。なんでも、身の上話でも、警戒心なく心を開いてくれる、何故ならば僕が相手に対して否定の態度を取らないからです。なんでもウェルカムだから。何を言われても認知を正して、ポジティブに捉えるから。だから「こいつには何を話しても大丈夫」って思わせる。相手の心をノーガードにできる。気が付いたら、懐にいますよ。その心臓、わし掴み。
仕事上の話ばかりでしたが、人生においても認知の歪みを正すことで楽しく生きることが可能になります。例えばメメントモリなどでしょうか。ラテン語で死を意識するってことです。いつか必ず死ぬ。同じ時は戻らない。光陰矢の如し。栄枯盛衰。だから、後悔しないように今を精一杯生きる。こう考えていれば、誰かを恨んだりイライラして過ごす時間がいかにもったいないかが分かるはずです。
おわりに
でも、この考えを全ての人に当てはめることは無理があると考えています。冒頭のツイートはADHDを抱えた人の認知の歪み。それは先天的にも後天的にもどちらかで抱えた個人の気質です。これを持ったうえで「認知の歪みは正すことができる。だから正せ」というのは、なかなか難しいのではないかと。特に器質的な面でそういうハンディキャップを負っている人は厳しい戦いを強いられるでしょう。
僕のパターンでいくと、コンプレックスを解消して挫折経験を経て、書物等から思想の知識を経たうえで実生活で実践し、それを体現しよう、ってのがノウハウになります。しかし、まずはコンプレックス解消に至れるかどうかというのもハードルです。そのモチベーションもそうですし、もしかするとコンプレックス解消には多額の資金を必要とするケースもあるかもしれません。そうなると、無い袖は振れない、ということで抜け出せないコンプレックス沼にハマってしまうことも十分に考えられるのです。
この記事を見て「認知の歪みを正してみようかな」って思える人がいるなら幸運、さらに実践して実際に歪みが正される人がいれば僥倖。これをこの記事では目的としています。しかし、自信も持てずいまだコンプレックスの渦中にいて抜け出せない人や、器質的なハンディキャップを背負っている人にはなかなか難しいことだったのではないかと推察します。
願わくば、社会全体で認知の歪みがどうしても生じてしまう人たちの包摂体制をとれるような世界であらんことを祈るばかりです。生まれ持つ気質、こればっかりはどうしても運なんですよね・・・