羆の人生記

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お金で幸せは買えるのか?~富と貧困の真ん中を進もう

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お金ってのは商品サービスと交換できる人類が発明した道具です。

じゃ、幸せもお金と交換できるのか?

ってのが今回のお題なわけですが、結論から述べると

「交換不能だが、幸せになることができる」

です。ちょっと意味わかんないですよね?

もうすこし砕いて語りましょう。

僕とお金

ガキの頃からお金大好きでした。

年始はお年玉で歳不相応なお金がもらえるじゃないですか、そしたらどうしたと思います?床に並べて恍惚の表情で眺めてたんですよ、ああ怖い。

ま、もちろんその紙幣が自分の求める嗜好品と交換できるからこそ価値を見出していたのは間違いないですがね。貯金して毎日残高眺めれば満足していたかといえばそんなことはなくて、やっぱり好きなもの買って散財しちゃう。

中学生、高校生になると欲しいものの値段がどんどん上がっていきます。ファミコン、スーファミ、プレステ、プレステ2。すんません全部ゲームですね、サブカル世代なんですよ。でも、これらって高価じゃないですか?買いたいものかったら10万金が軽く飛ぶんです。しかし、欲しい気持ちを抑制できずに何としてでも、小遣いを1年分前借してでも手に入れたい、欲望の権化。これら物欲と相まってお金への執着は徐々に膨らみました。

大人になってやっぱりお金。衣食住の次の贅沢。車、家、ブランド品などなど。世間で飛び交うはやれ年収がいくらだ、やれ貯金がどれくらいだ、と。お金の勢いは留まるところを知らず、一時期は「お金で買えないものはない」なんて素で考えていたくらいに絶大な存在だったんです。思い返すと「幸せ」について考える時間は相対的に少なかったように感じます。ふとした瞬間に「幸せってなんだっけ?」なんて浮かんでは消える泡沫の概念。それらを看過して何気なく過ごした数十年でありました。

紆余曲折を経て

結婚、離婚を経験しました、仕事でも挫折を経験し、色々な人に迷惑をかけて己に対する諦観が芽生えるにつれてやってきたのは「幸せってなんだろう」です。お金の存在がどんどん消えていく。いやそりゃもちろん必要ですよ、先立つものとして不動の地位は揺るがないお金将軍は健在です。でも、なんというか根幹をなすもの、真理からは遠ざかっちゃうなーって肌で感じ始めて。嫌悪はしないけど執着もしたくない存在に変化していったんですね。

あれ、お金じゃ幸せになれないじゃん?

大きくて豪華な家に住み、高級車を乗り回して高級革張りの助手席に見目麗しい連れ合いを乗せ、食べるものは超豪華な食材ばかり、月に1度の海外旅行。・・・さて、目的は果たした。次なる目的地はいずこ?

大きな家は維持費がかさむ、高級車もいずれ朽ちるし連れ合いだって歳をとる、いつまでも美味しいものばかり食べていると消化できなくなるし、海外旅行も全部の国に行けば行くところがなくなる。

うーん、欲望に際限なんてないんじゃないの?

なーんて何気なく考えていた時に出会った仏教思想で目が覚めた感じです。不必要なものを捨てることを始めとした断捨離や、「自分」というものをいまいちど俯瞰してみて、その不確かさを知ることで、いよいよ「欲の連鎖」というものがいかに心を乱すかということを知り始めました。←今ここらへん

貧困とお金

「じゃあ草でも食って裸で生きろ」

とはなりません、だって、あなたこれで生きれますか?社会システムが機能して、とりあえず最寄りの警察署へ連行されるのが落ちでしょう。見つからなくても、ゴミでも漁らなくては餓死してしまいます。極端ですけど、そういうことです。人同士が寄り合って秩序をもって暮らすということは一定のルールを決めねばなりません。その埒外に出る、ということは死と隣り合わせを覚悟して生きることと同義です。

ということで、この社会で生きることを前提としてお金と幸せについて考えてみましょう。まず、最低限、衣食住が欲しいですね。なにはともあれ衣食住、です。衣はルールとして必須ですね、食も必須、住は人によって「必要ない」といわれるかもしれませんが、安心できる場所を求めるのが普通だと考えればやはり衣食住3点セットは欲しいですね。最低限を賄うお金が必要です。この最低限を割ってしまうと貧困へ突入することになります。

「貧すれば鈍する」「衣食足りて礼節を知る」など、貧困が正常な判断や節度を阻害するという普遍的な観念は昔からありますよね。貧困だと、心が安定しない、つまり幸せとは程遠い道を歩むことになる。

となると、

幸せになるためのお金は最低限必要

ということが言えます。これが僕のお金と幸せに対するひとつの答えです。

富とお金

お勤めか自営業かは問わず、世の中には莫大な富を築き上げる人がいます。お金をいっぱい持っています。これが幸せかどうかについて考えてみますと、とりあえず衣食住はOKですよね。お金で賄えますから。

加えて、お金のかかる趣味にも興じることができます。これは最低限にプラスした付加価値でしょう。これをもって幸せといえるのか?それはわかりません。ほかの何にも目に入らず没頭できる趣味となれば、あるいは幸せかもしれませんが、興奮が醒めて一過性の快楽で終わってしまう場合もあります。お金をかけずとも没頭できる趣味もありますから、趣味にお金をかける=幸せとは定義できないかもしれませんね。

さて・・・お金持ちの不安について考えてみたいのですけど、先ほども申しました通り大きな家に住むにはコストがかかります。つまり現在の富を維持するにはお金がかかるのです。やっとのことで1億円を貯めた人が高級マンションを一括購入したとして、その維持費が月収をはるかに超えるようでは幸せを維持できませんよね。このように物質面で「維持」という概念が生じる。

では精神面では?これは「築いた富が失われないかの不安」があります。例えば不安定な収入で先月の儲けが500万円だったとして、今月はそれを割ってしまうと「先月より少なかった」となる。人間というものは、そういうものです。稼げ稼げで前に進み続けている人が陥りやすいマインドでしょう、なにせ際限がないのです。「ここまで稼げばあとは満足だ」こんな具合に単純な構造に心は設計されていないのですねー。

「おいおい、金持ちは不幸になる、なんて言わないだろうな?」

と、突っ込まれそうですけど、それは否定します。お金持ちだって幸せになれる、むしろ貧困の人よりも幸せになるハードルは低いでしょう。だって、高級志向を止めて、お金に対する欲を断てばいいのですから。生命は脅かされません。貧困の人は生命及び安心を脅かされて幸せどころではないのです。どうですか、お金持ちってやっぱりアドバンテージがあると思いません?

けど、欲を捨てられない、身の丈を知らない、欲望に底なしであるという真理を理解しようとしない。ひたすらに執着や見栄に振り回されたお金持ちが行きつくところは、みなさんのご想像の通りだと思いますね。

お金と幸せの考え方

「じゃあどうすれば幸せになれる?」

って聞かれたら、そうですね。今現在の考えを述べるのであれば

最低限の衣食住を確保し、貧困対策を講じつつ、欲を手放して生きる!

これじゃないですか。

貧困に陥らないように、最低限の生活ができるくらいに運動したり知識をつけたり健康に留意して努力して生きる。

富を得たのなら、身の丈を知って欲望の果てを知り、内省を繰り返して豊かな心を目指す。

要するに中道を目指せば良いんですよ。金を求めれば苦しみます。貧困に喘げば鈍ります。だから、真ん中を歩きましょう、そういうことです。

僕は貧困を敵視します、何故なら普遍的な幸せの享受を阻害するからです。国にできることはする、個人で努力できるところはする、周りの人間が手を差し伸べる、理不尽な労働力の搾取を無くす努力をする。多くの人が幸せになるための貧困のない社会を目指すべきです。

 

お金持ちはやっぱり強いんですよ、厄災が降りかかっても、持ちこたえて真ん中くらいに留まれるじゃないですか(余程じゃなければ)。でも、貧困から貯蓄無しで真ん中にいる人は、また貧困へ逆戻りしてしまうんです。

貯蓄は、中道へ戻るための保険になる、こう考えてはどうでしょう。そんな大金じゃなくていいです、ただ、一時的にアクシデントが発生した時にしばらく持ちこたえられるくらいの蓄えをする、これでOKですよ。あとは贅沢しないで暮らせば幸福感を得られるはずです。

 

最後の最後になりますけど、「幸せ」って何?ってのを、もっと始めのほうで真剣に考えておくべきだったなぁと。

僕の幸せは「自分に正直に明るく生きること」です。これを達成することを幸せと定義すれば、生き方に迷うことはありませんね。お金がなくなると窮状から心に余裕がなくなって幸せの道から逸れるベクトルが生まれちゃうので、やっぱり最低限の衣食住は欲しいな。かといって(保険以上の)余分な富は必要なしって感じ。

 

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