今日も日本のどこかで生活保護バッシングは起きている。
バッシングをした人たちはその行為を悪行とは考えず、むしろ正義の鉄槌と言わんばかりに堂々と鉈をふるっている。
かつて、自分もそうであった。生活に困窮する人間たちは努力が足りず、怠惰が招いた自己責任の結果であると。そう信じていた時代もあった。
でも、今は違う。多数の貧困を伝える書籍を読んで真相を知ったというのもそうだし、何より自分がいろいろと苦労をしたせいで、弱い立場の人たちの気持ちを考えるようになったから。
生活保護を受けるべき人たちはそれぞれに事情を抱えていて、それは単純に自己責任で片付けられるものではない。生まれた環境も違えば、親も違うし、フィジカルやメンタルの強さも個体差はある。これは運不運だと僕は考えている。
現在、強者たる人たちは、それを自己選択の結果だと誇るかもしれないが、そもそも強者になれた境遇や固体の強さは、どうやって努力で説明することができるか。努力してのし上がっていくベースやメンタリティが備わっていたのもまた、運ではなかろうか。
弱者もまた、運不運。自己選択で誰が悲惨な状況をセレクトすると思うか。だれもそんな道は歩みたくないだろう。しかし、そうなってしまったのは、結局のところ不運なのだ。
この「運不運」で死活問題にならないために、弱者を守る仕組みが生活保護なのである。ダイスの目は、誰にも予想することはできない。だから、もし悪い目が出てしまって生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされてしまった場合に、もし死ぬ選択しかできないのであれば、それは修羅の世界だろう。
あなたも、そして僕も、いつどこで道を踏み外して貧困にあえぐかは分からない。それは、神のみぞしるのである。自己選択で貧困を回避できると思っているかもしれないが、どんなに努力しても病魔に襲われることもあれば、もらい事故で半身不随になるかもわからない。日々、ダイスは振られていて、たまたまここまでこれたのは、目がそれなりに良かっただけという結果だ。
10万円巡り生活保護批判 背景#Yahooニュース https://t.co/Jj8rW0b80l
— 羆 (@poji_higuma) 2020年6月17日
生活保護バッシングをする人たちの心には、妬みや嫉みがあるという。その気持ち、わからんでもない。でも、それは真実を知らないからこそ生み出される感情である。
もっとも悪いのは、国政に携わる、要となる人間たちがその感情を利用することだ。政権を取りたいがために生活保護受給者を仮想敵に仕立て上げて世間を扇動し、分断を招くというのはとんでもない悪行である。国に、メディアに踊らされないためには、やはりこの国の貧困の現状を、書籍や適切なWEBメディアで知る必要がある。
恨む必要のない人たちを恨み、自分のうだつの上がらなさの鬱憤をそこで晴らすなどという悲しい歪んだ構図を、これいじょう助長させてはならない。生活の質がよくならないのは、自己責任でも生活保護受給者のせいでもない、ひとえに国の政策がよろしくないのである。こういうのは、選挙でひっくり返してやらないといけない。
手前味噌だが貧困書籍はここらへんを読んでくれれば理解が進むと思われる。
生活保護受給者を糾弾して、自分の生活が良くなると思うだろうか。そんなわけないでしょ。物事の本質をとらえよう。