羆の人生記

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日本の世間とは?4つのルールを学ぼう

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世間の4つのルール

世間という枠組みがある以上、「個性」なんて発揮できないじゃん!

と考えるあなた。気持ちはよくわかります。生き辛いんですよね、なんとなーく。

でも、改めて考えると僕自身が「世間」というものを良く知らないことに気が付きました。

「世間知らず」という意味ではなく「世間とは?」という素朴な疑問です。これにたいして何の含蓄もないのでは話にならないですよね。ということで関連書籍を読んでみました。そこから得たものをフィードバックしようと思います。

世間とは

日本人が集団になったときに発生する力学

著者の佐藤直樹氏はこのように定義しています。

 

的を射る、もやが晴れるような表現ですね。まさにそのとおりで、日本人特有のジメっとしたあの空気感を定義するには最高です。辞書で引いても「世間とは?」これに対する解を示してくれないのですよね。それは前回の記事でも触れています。

 

西欧には見られない、日本独特の「世間」という概念について、4つのルールが書籍内では示されています。これを紹介しましょう。

 

「世間」の4つのルール

1 贈与・互酬の関係

お中元やお歳暮が良い例ですね。

 

相手との関係や上下関係を考慮して内容に差をつけるのも特徴的です。西洋にはプレゼントの習慣はありますが、贈与や互酬を習慣として行うことはありません。

 

メールにしてもそうです、送った以上は相手もそれに返答しなければいけないという暗黙のルールがあり、LINEだと「既読スルー」などと揶揄されて気疲れする原因にもなっていますね。

 

日本人にはこのように「こちらがこれだけのことをしたのだから、相応の返礼があって然るべき」という考え方を持っているようです。

 

2 身分制

憲法第14条で法の下の平等を謳っているにも関わらず、色々なカーストがまかり通っているのが現状です。スクールカースト、学歴偏重、ママカースト、部落差別などなど。表には出さなくとも、そのような差別意識が法律よりも強い影響力を持っているのが日本の世間です。つまり憲法がタテマエになってしまっている。

 

西欧でももちろん差別はありますが、この場合は法的に「人権」を掲げて戦うことができます。個人が厳然と存在して「法の下の平等」が根幹をなす社会だからです。しかし、日本は世間が強烈な影響力を持っている。だから、実質差別があっても、それを覆すのが難しいのです。

 

3 共通の時間意識

出る杭は打たれる、ということです。

 

極論を述べれば日本人に「個人」はいません、これは西欧から輸入されて強引に訳した言葉であります。みんな同じ時間を共有している、だから一人だけ違うことをするのは許されない、みんな同じであるべきだという思想ですね。

 

能力差を認めないのも特徴的です。誰かが努力の末に結果が出なかったとしても「運が悪かった」として、決して「劣っていた」とは認めない。人間には本来、能力や才能の差があるものです。しかし、日本ではそれを周りにひけらかしてはいけないという「人間平等主義」が支配的です。

 

皮肉なものです、これほどあからさまに「身分制」が渦巻く世間で、表面的に平等を謳うのですから。これでは多くの人が良く分からなくなり、病んでいくのも頷けます。

 

4 呪術性

合理的根拠のないルールが多いです。

 

大安に結婚式を挙げ、三隣亡に引っ越しを避け、友引に葬儀を執り行うことをしません。大きな建物を建築する際には土地の神様に祈りますし、地鎮祭もする。日本は先進工業国の中でも、異様に多数の古いものを保存する唯一の国だそうです。

 

合理的に説明のつかない俗信・迷信の類を尊重するのです。法律ではこのように決まっているから、というのは「社会」という概念が醸成された文化でのみ通用することであり、世間のルールが世の中を支配する日本では通用しません。法律よりも呪術が強い影響力を持っている。

 

西欧では、このような俗信迷信の類、呪術性をとうの昔に否定しています。一神教と多神教の違いも大いに影響しているようです。日本独特のアニミズムがこのような土壌を形成しているのでしょう。

 

世間を上手く渡れば生きやすい

いかがでしたか、日本独特の「世間」について、4つのルールを紹介したわけですが。僕はこれを知って、いかにこの国で自分探しが難しいかを痛感しました。

 

厭世的というよりも、実際問題として考えますと、この「世間」という概念がある以上は、自分探しなどしないほうがいいのではないかと思うのです。もちろん、自分はどう思うか、どう生きたいかなどの主体性は持っていても良いのでしょうし、他の何かに影響されすぎて軸がブレるのは不本意な生き方になるでしょう。そういう意味では「基本的にどう生きたいか」「前向きに生きるにはどう考えたら良いか」というのは模索しても無駄ではないでしょう。

 

しかしながら、「世間」という概念を俯瞰して、自分はその枠組みから逃れることはできないんだということを自覚できたのなら、もっと上手に生きることは可能だと思うのです。冒頭で紹介した記事では、僕が世間に対して疑問に思っていることでも強制的に排除されるストレスを愚痴っていますが、この考え方自体が非生産的だった。そうではなくて、「世間とはこういうものである」という基本をしっかりと据えれば、それと自分の意見を擦り合わせて丁度いい妥協点を見出すことができるのではないかと思うのです。

 

これからも疑問は尽きぬのでしょうが、日本が明治以降に急速に近代化を進める中で無理やり導入した「社会」「個人」という概念がいかに馴染んでいないかということを知れたのは非常に有意義でした。

 

世間なんです、この世の中を支配しているのは世間。

 

それをまずは知るべきなのですね。これを知らなければ、勝ち目のない戦いを挑み続けて、ひたすらに疲弊してしまう。

 

世間という概念が徐々に崩れて、西欧のように「社会」「個人」が醸成されていくには、日本ではまだまだ時間がかかると思います。ですが、現に僕がこのような疑問を世間に対して向けているということは、僕以外にも同じように「個人」という概念に対して色々と物思う人が増えているのではないかと考えます。ですから、これは西欧近代的自我が日本でも徐々に育まれつつある、いわば序曲なのではないかなと。

 

個人として世間に反旗を翻すには力もないし無駄でしょうから、僕はこの「世間」をいかに上手に渡るかをこれからは考えて進んでいきます。きっと、余計な思考リソースは従来よりも大幅に低減できるかと思います。ですが、もしこれから「個人」というものに焦点が当たり続けて、それがどんどん深まっていくのだとしたら、そんな世の中も見てみたいなって気持ちはあります。日本にもやっと「社会」が到来するんだなって、そう感じることができるはずですから。

 

なんだか世間を否定しているエントリのようですが、そうでもないのですよ(笑)同調圧力も災害発生時には秩序ある行動に繋がりますし、低い犯罪発生率も世間を崩さないように、という日本人独特の観念が成し得たことでしょうからね。あ、そのかわり周りに迷惑をかけたくないという気持ちから自分を律するあまり、自殺率は高いですけど。ガラパゴスの如くこの文化をいつまでも守り続けていくのか、それとも西欧のように個人主義を本当の意味で根付かせて、法の下に人は裁かれるという割り切った「社会」を作るのか。これからの日本はどうなっていくのでしょうかね~。

 

この2つの書籍を読了すれば、西欧が大昔に「世間」という概念を捨てたこと、また、日本が未だに世間という不文律でガチガチに縛られている理由を理解することができるでしょう。どちらの書籍も読みやすいですよ。

 

朱門さんの本は最初から最後までスラスラ読める内容です、本当に読みやすい。佐藤直樹さんの本は中間でやや専門的な部分が出てきますけど、それでも最終的には解りやすく総括してくれます。

 

世間に疑問を感じている方、まずは「世間」とは何かをこの本で知りましょう。色々な意味で、そこからスタートできるのではないかと思います。

 

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