羆の人生記

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喪失体験や挫折で人は諦め、そして平穏な心と強さを持つ

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過去に2回の離婚と仕事での大きな挫折をした僕の経験則からすると、人というのはこのような喪失体験や挫折で次第に諦めていくのかな、と。

諦め

ご存知の方もいらっしゃるかとは存じますが、仏教関連の書籍で「諦める」というのは決してネガティブな言葉ではなく、むしろ物事を明らかにする、という前向きな意味を持っていると教えている場合が多いですね。

 

今、日本語で「諦める」といえば、自分の願いごとが叶わずそれへの思いを断ちきる、という意味で使われるのが一般だ。しかし、「諦観(たい(てい)かん)」、「諦聴(たい(てい)ちょう)」といった熟語の「つまびらかにみる、聞く」にみられるように、「つまびらかにする」「明らかにする」が、本来の意味である。そして、漢語の「諦」は、梵語のsatya(サトヤ)への訳語であって、真理、道理を意味する。

諦める | 生活の中の仏教用語 | 読むページ | 大谷大学

 

もう希望や見込みがないと思ってやめる。断念する。

諦める(アキラメル)とは - コトバンク

 

喜怒哀楽のあった過去

物心ついた頃から成人に至るまでは喜怒哀楽があった。日常に感情の波があったのです。ということは、今は(ほとんど)ない、ということですね、これは後述します。

喜怒哀楽の波があるということは、物事に対して少なからず希望を抱いている、ということです。自分の将来への希望、他者への希望(自分への見返り、という意味で)、物欲を満たすための希望、などなど。

このような生活は嬉しいことがあれば高揚する反面、何か悲しいことがあればその分、鬱屈とした側に心が振れてしまう。その振れ幅は喜び(舞い上がり)が大きいほど反動が大きいと言えます。

人は、成長していく段階で、そうですね、著しい時期だと30代の半ば以降でしょうか?よく丸くなる、と言いますよね。人間が穏やかになる、角が取れる。これって諦めの一種なのだと思います。

丸くなる度合いを大幅に高めるのが「喪失体験」や「挫折」です。人間的に成長する上でこれらが必須なのかと問われると正直自信はありませんが、苦労を伴わない経験を積み重ねても人間の厚みというのは増さないのかな?というのが今のところの見込み。

さてさて、そういうわけで社会人になるまでは僕は喜怒哀楽があって日々の物事に一喜一憂していた、というわけです。

2回の離婚と仕事での挫折

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上記記事で詳述していますが、僕は2回の離婚を経験しています。自分の選択した結果であり、相手の責任には転嫁できない出来事でした。これはおそらく、自分の中では「喪失体験」です。

幼少期から成人するまでに良く述べていた自分の夢として「明るい家庭を築く」というのがありました。というのも、自分の両親が、性格は正反対といえるのにとても上手に家庭を運営しているのを目にしていたので、その背中を追うというか理想と見ることでこのような言になったわけです。

それが、叶わず。しかも、2回も。なるほど自分は結婚には向いていないんだろうな、とも思ったし、そもそも「幸福になるための必須条件として結婚は不要なのでは?」という結論に至る一歩手前まできています。結婚を否定はしませんが、フワリとした理想の世界というよりは社会システムの一とみなしている。

ま、そんなこんなで2回の離婚を経て「結婚での幸せ」を諦めた。これがひとつ。

 

それからこのブログでは詳述できないのですが仕事上で大きな挫折をしています。自分の失敗が招いたことですが、他者から見るとそれはもう精神的に大ダメージを負うことは免れぬほどの失敗で、多くの同僚から心配されたものです。

かれこれ3年前の話ですが、現在ではお陰様で第一線で働かせていただいております。「不死鳥」とまで呼ばれまして、ま、生まれながらにしてストレスへの耐性が高い部類なのだろうなと、自分のことを分析しています。メンタルが弱めの人は1回の離婚でアルコール依存症から入院に至るほどのダメージを受けているわけですから、そりゃ不死鳥に見えるのはさもありなん、でしょう。離婚も色々と形がありますから簡単に比較はできないですけどね。

さて、この過程で僕が諦めたことは「将来へのキャリア」や「他者からの評価」です。なんせ挫折の度合いが大きかったものですから、将来への希望なんて持ちようがありません。希望どころか、職場で働かせてもらえることは大変ありがたいことであり、奇跡のようなものだ。これくらいの気持ちですよ。だもんですから、一般的な社員さんと比べると未来への展望というのはほとんど持っていないように思えます。今、自分にできることを精一杯。ほかには何も求めない。仕事においては一事が万事、これです。

似通った人たち

同僚にも、います。とてもやさしくて人の痛みに敏感な思いやりのある人間は、いますよ。そういう人たちは大きな喪失体験や挫折をしていることがほとんどです。僕のように仕事上で失敗した人もいるし、両親を何らかの形で早くに亡くしている場合など。

その人たちは多くの人に慕われ、頼られ、大きな仕事を任されて力強く前進しています。バリバリです。けど、どこか諦めた様子も見られる。余計な希望は持っていない。現実を見据えて、自分のできる限りのことを一生懸命している。ほかの誰にも左右されず、ブレがない。

きっと、立ち直ったのでしょうね。いちどは深い闇の中に叩き落され、それでも現実を直視して戦い続け、また日の当たる場所へ戻ってきた。こういう人間は強いですね。とにかく打たれ強い。そして優しいのです。

喪失体験や挫折を経験したから強くなったのか、もとから強くなったのかは、正直わかりません。ですが、これらの人たちと僕のことを、どうしても重ねてしまう。そして、類似性を見出さずにはいられないのです。

喪失や挫折を知らない人たち

他罰的で傲慢、物事を斜に構えて先入観が強く、人の痛みに鈍感な。ちょっと辛辣な表現ではありますが、喪失や挫折を知らぬ者というのは往々にしてこのような傾向があります。

人に優しくあれない原因というのは、怪我をしていないから。人が怪我をしても、その痛みを慮ることができない。想像を働かすことができない。離婚を経験したことのない人は、離婚で落ち込んでいる人の大変さを推し量ることができない。

けど、体験はしていなくても想像をすることはできます。そこでその人が持つやさしさを発揮することもできるはずです。が、こういう能力もまた過去の喪失や挫折を乗り越えた結果培われたものであることが多く、経験をしていなくてもやさしくあれ、というのはちょっと難しいようにも思えますね。

話は戻りますが喪失や挫折を知らぬ鈍感でやさしくない人たちは、僕は「仕方ない」と見ています。同じ心の言語を持ちえない。視線があまりにも違いすぎる。だから、それこそ求めてはいけない。どんなに辛いことがあっても、未経験者に「お前にこの痛みがわかるのか」と問うくらい難しく、それこそ愚問なのであります。痛みを知らぬ者に、共感を求める方が間違っているのかもしれない。

手にした平穏の有難みと人生の方向性

心の平穏です。

かつて喜怒哀楽の波に乗っていたメンタルサーファーの頃とはうってかわる、凪に漂うひとひらの葉の如き日常。これはまさしく平穏と呼べるものです。これがいかに有難いか。

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かつて、青天の霹靂とも呼ぶべき大きな喪失体験や挫折をして一時は深く暗いひかりの届かない谷の底に転がり落ちた辛さはありましたが、それでも前を向いて地上にあがってきた際に見た景色というのは、今までの希望という色眼鏡で通していた景色とはまるで違う様相でありました。

ともかく平らで、抑揚がない。日々の暮らしに刺激を求める自分はいない。将来に希望と不安をいだいて踊る心は、もうどこにもない。あとはただ「受け入れる」のみであります。

唯一の救いといいましょうか、努力をする心は失くしていませんでした。でも、従来とベクトルは変わっています。今までは自分のキャリア、他者からの評価、欲しいものを手に入れるための努力をしていたわけですが、今では「生きる」ための努力を惜しまないようになった。

日々の生活の当たり前のことに対して。食う、寝る、掃除する、仕事する。これらに対して真剣に向き合い、努力をするようになった。そして、他者との縁を粗末にしないこと。他者の幸せを願うこと。他者の痛みを慮り、自分にできる限りのことをすること。こういった力の方向が自分の心に付与されているように思えます。

 

喪失体験や挫折というのはとても辛いことで、人によっては闇に葬られることもある、只事ではない人生の大きなネガティブイベントでございます。しかしながら、逃避せずに正面からぶつかりあい、それを乗り越えた先に待つ抑揚のない平穏な心と、生きることに一生懸命になる素直さと、他者を優先に考える人生の方向性を見出せるのもまた喪失体験や挫折でございます。

 

今まさに辛い辛い谷底で体を丸めてうずくまっている諸氏がいらっしゃるのでしたら、どうか強く生きて再び地上に姿を現してほしいと切に願います。もし、地上に出てきたら、きっとあなたの見る景色はかつて喜怒哀楽で彩られたものとはまた違うものが広がっているに相違ないのでしょうから。

 

そこから、平穏な凪の人生が再び始まるのだと存じます。

 

谷底から這い上がるためには、ガッツだけではどうにもならないことが多いです。社会に所属しているのですから行政の力を存分に頼り、そして何より他者の力を借りて再起して頂きたい。苦しくどん底にいる知人友人同僚がいれば、そこの強い心を持つあなたも、どうか暖かい手を差し伸べる勇気を持ってくださいませ。

 

拙文にて。