羆の人生記

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「過ぎたるは猶及ばざるが如し」とは良く言ったもので

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こんばんは。

最近、強く思うのは「過ぎたるは猶及ばざるが如し」という言葉とは、ほんと良く言ったものだなぁと。昔の人は凄い。

今回のテーマはこれです。

意味と由来

何事も程ほどが肝心で、やり過ぎることはやり足りないことと同じように良いこととは言えない。
良いと言われることでも、やり過ぎは害になるということ。
『論語・先進』にある、孔子が二人の門人子張(師)と子夏(商)を比較して言った言葉に基づく。
「水準を越した師も水準に達しない商も、ともに十全ではない。人の言行には中庸が大切である」と説いたという故事から。
「過ぎたるは及ばざるが如し」ともいう。

過ぎたるは猶及ばざるが如し - 故事ことわざ辞典

 

今回、記事を書くにあたり改めて調べた僕としては、目からうろこの知識です。

意味は読んだとおり、何事も行き過ぎは良くないってこと。日常生活における例は後ほど書きます。

由来は『論語』から。中庸の精神を大事に・・・という部分に強い共感を覚えます。喜怒哀楽の極端な人生よりも平穏な人生を望む僕個人の価値観と合致しています。

 

日常生活における例

運動

健康のために運動、通年でジョギングをします。

夏場限定ですが、ロードバイクで遠乗りもします。

冬場は一時期はウォーキングをしていましたが、車を所有してからはめっきりしなくなりました。

さて、運動においても「過ぎたるは猶及ばざるが如し」を痛感することが多いです。

ジョギングで言えば10km~15kmは体が「健康に良い」とサインを送ってきますが、それ以上になると黄色信号を灯し始めます。

僕の体は、どうやら15km以上のジョギングに適していないようです。これ以上を頑張れば「過ぎたるは猶及ばざるが如し」の状態となり、足腰が痛くなったり翌日に疲労を過度に残したりします。

健康のために運動をしているのに、逆に不健康になるという矛盾が発生します。こんなことは望んでいません。

何でも根性論で「もっと走れば、それだけで素晴らしい、美徳だ」というのは盲目的であり、何事もほどほどに。不健康になることが目的ではありませんので。 

恋愛

結婚、というのは家庭を運営して子供の健全な育成を促すという意味で少々位相が違いますので、ここでは単純な男女間の恋愛について述べます。

のめり込みすぎるな、ってことです。好きは好きで良いのですが、あまり好きになりすぎるといつの間にか相手と自分の境界線が曖昧になって、趣味趣向やプライベートな時間にまで要求が及んでしまいます。これでは、不幸を生産するだけです。

ですので、恋愛に関してもほどほどが健全ではないか、と思うのです。相手を尊重して、思いつめすぎず、一緒にいられるときはその時間を大切にすれば良い。そもそも相手と自分は別の人間であり価値観の絶対的な共有など不可能である。これくらいに考えていれば過ぎたる恋愛には陥らぬ(にくい)はず。

高説を垂れていますが、経験則から述べています。僕は恋愛体質で直ぐに惚れてしまうところがありまして、今までは恋愛にのめりこみ過ぎて自分も相手も大けが(比喩的な意味で)をしたことが何度もあります。ですから、現在のこの考え方というのは中庸で波乱のない、自分的にはベストな形ではないかと考えているのです。

燃え盛るような恋愛も記憶に鮮明に残るものです。それはかけがえのない思い出として心にとめておくとして、これからの生き方、何を望んでいるのかを考えて恋愛の仕方も変化させていきたいものです。少なくとも僕は、もうパッションを望んではいません。けど、誰かを好きになることもあるし穏やかな恋愛は望むところです。

人間関係

恋愛にも通じていますが、人間関係もそうですね。過度に入れ込み過ぎない。リスペクトするのは結構だけど、相手と自分はやっぱり違うわけで、背中を追っかけるのは結構だけど自分の足で地面に立っているかは常に確認したいもの。この大前提をいかに心に落とし込めているかが肝なのかなと。

相手をコントロールする、あるいは誰かにコントロールされるような状況も、やはり「過ぎたる」人間関係ととらえます。人の縁は幸福に至る重要な要素ではありますが、逆に不幸にもなりえるというわけです。

つかず離れず、去る者は追わず。感謝を忘れずに生活していれば、誰かに執心することなど起きえない・・・はずです。なかなか難しいのですけどね。

仕事と休日

仕事に打ち込むのは、悪いことではありません。なにせ食い扶持ですから。食うか食えないか。これは死活問題。生きることとほぼ同義でもあります。生きることに一生懸命になること、とても美しいと思います。

ただ、仕事だって死ぬまで続けられるかはわかりません。それに、休日とのバランスは不可欠です。仕事だけして、燃え尽きるように死ねる確約はないのです。いつか、終わりは来る。サラリーマン型の雇用形態ですと定年退職というものがあります。そうなった場合に、では今後は何をよすがに生きていくかという話になります。

だから、仕事も「過ぎたる」ものにせず休日とのバランスをとったほうが良いのではないかと。ワークライフバランスってやつですね。なにか、他に趣味があると良い。家庭で活躍されても結構です。年頃のお子さんの教育に四苦八苦するもよし、奥様とたまのデートを楽しむも良しです。

逆に休んでばかりだとストレスが無さすぎて逆にストレスになりかねない。対人接触ストレスというのは、なくなると精神衛生上良くないみたいですね。適度に、人と接するのが良い。もちろん、接しすぎるのも良くない。中庸ですね。話は戻りますが、年がら年中ゴロゴロして仕事もせずに猫のように生きるのは「過ぎたる」状態と言わざるを得ません。

 

こんなこと書いてますが、休日でも図書館に出かけて仕事に関する専門書で勉強したりしています。「仕事に過ぎたる」予備軍、いやすでに罹患しているかもわからない僕です。自分の中で是としているからこのような行動をするわけですが、理屈ではあまり良いバランスとは言えないなと感じています。

仕事以外で(趣味でも恋愛でも社会活動でも)何らかのことに精を出せる時が来れば、きっとバランスが取れるのだとは思いますが・・・

今回、最も書きたかったことは「健康」についてです。

最近、食と健康に関する本を数冊読んだのです。その中では「これは良い」「あれは駄目」という論調が多かったのですね。

それにもろに感化されてしまって、自分の中でへんな縛りを作った時期がありました。肉を食べない、だとかね。

結果としてどうだったかというと、食の幅が狭まって生活が楽しくなくなったのです。それを実行したところで、すぐに健康的効果が劇的に現れるわけでなし、それでいて食事のメニューは制限されて、自分が感覚的に「食べたいな」となる食材も、偏った知識に囚われて選択できない。凄く不自由な状態でした。

そんな中でとある一冊の本に出合いました。

こちらです。

内容は、トンデモ健康本のニセ科学の実態を暴き、健康に良い食べ物とは何なのかを提示するもの。

結論は書籍のタイトル通りなのですが、著者は「中庸」の大事さを何度も説いています。なんでも食べ過ぎは駄目。けど、たまに楽しむくらいなら問題ない。ここに感銘を受けました。

自分の体は正直です。だから、そこに素直になったほうが良い。あれが良いから毎日食べる、これが駄目だから絶対に食べない。そうじゃなくて、体が悲鳴を上げているなら食べない方が良いし、求めているなら素直に食べる。あとは習慣の問題ですね。食べた時は大丈夫でも、10年食べ続けたら何らかの健康被害が出るかもしれない。やりすぎは良くない。ここでも出ます、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」です。

牛乳、みなさんは飲みますか?僕は尿酸値が高くて、それを下げるのに有効ということで低脂肪牛乳を飲んでいた頃がありました。けど、その時期はお腹がパンパンに張って大変でした。とても辛い思いをしました。

低脂肪牛乳は尿酸値を下げる効果があるのかもしれません、しかしそれは一般的な話で、「僕には」合わなかった。だから、飲むのを止めたのです。これが、体に聞くということなのかなぁと。

ほかにも、食に関して確かに言えることは

  • 白米を食べると食後の倦怠感が激しい
  • 糖分の多い飲み物を多く飲むと倦怠感が出現する
  • 脂ものを多量に食べると膵臓の不調が起きる
  • 酒を連日多量に飲むと疲労が蓄積する
  • 肉を食べすぎると屁が臭くなる

などでしょうか。ネガティブな部分ですね。これも体に聞いた結果です。だから、こういうところには正直になろうと思います。だからといって白米は絶対に食べない、だとか砂糖の入った飲料は意地でも飲まない、とかそういう極端なことはしません。たまには良いんです。

インスタントラーメンだって、全否定は極端ですね。作る手間の簡単さを考えれば、メリットもあります。たまに食べるくらい、良いじゃない。これくらいの気持ちでいたほうが良さそうです。 

 

ま、そんなわけで、僕の過ぎたる食への意識は、この書籍のお陰でかなり正されました。それに、随分と精神的に楽になったような気がします。機会があれば一読してみては。

 

終わりに

どうでしょうか、みなさんは「過ぎたる」状態になっていませんか。それで自分を縛り付けているようならば、いちど中庸に戻ってみるのも、有りかもしれませんね。

 

 

ただ、思うんですよ。過ぎたるは、時に大きな成果を生むこともある、と。

オリンピックの金メダル選手は、中庸を貫くタイプでしょうか。いえいえ、そんなことはありませんよね。あれこそ「過ぎたる」ものの最たる例でしょう。誰よりも努力して、血のにじむようなトレーニングをして頂点に到達したわけです。

なんでも中庸中庸といっては、栄光は手にできない。それに、経済成長だってままならない。競争に打ち勝てない。現代社会で生き抜く力をなくしてしまいかねない。確かにこうも思いますよ。

じゃあ、どのようにこれらをとらえればよいのか?

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個人的には、どこかを目指すうえで中庸とはいかない、となればそれ相応の「覚悟」がいると思います。

勝利へ邁進するのであれば、敗者の背中に立つ覚悟を。闇に落ちるのであれば、光の当たらぬ場所で生きる覚悟を。それぞれ求められるのではないでしょうか。中庸から外れるとはリスクを負うことなのです。

自分は生来の臆病者なのでしょうね。どうしても中庸、がしっくりくる。だから、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」という言葉が好きなのでしょう。

 

とかなんとかいいつつ、見えないところでこっそり努力したり、誰かよりも優れた成果を上げることに少なからずの快感を覚えているあたりは、完全なる中庸になり切れぬ凡庸な男なのだろうなぁと、自分のことを見ています。

 

以上!