思い出話になります。
かつて先輩方と海水浴へ行った時のこと。
僕の会社はどちらかといえば体育会系
「こんにちはー」「ども・・・」みたいなノリではなく「お疲れシャッス!!」「アザッス!!」「シャス!!」「蛇ッ!!」こんな感じですね。最後に変なの混じったけど気にしないで。
で、先輩後輩、まぁ上下関係も厳しいわけですよ。ちょっとでもタメ口を聞こうものなら「生意気だ」なんて呼び出されたりしてさ。そんなことがあるたびに「古いなこいつら、ビーバップハイスクールの読み過ぎで頭の中わいてるんちゃうか」なんてシラけてましたね。
中学校が荒れていたこともあって、先輩への挨拶の仕方などは当然のように処世術として身に着けていた僕は、会社に入ってからはあまり苦労しなかったのですけどね。あるとき、ある衝撃的な言葉を聞いたのですよ。
先輩が絶対の狂った世界
僕が車を出して地元の海に海水浴へ行きました。主催は少し上の先輩方数名。毎夏恒例の行事で、車を後輩に出させて(もち後輩はノンアル)、みんなで海に行くというものです。もう聞くだけでおぞましいのですけども、会社の付き合いということで避けては通れぬ道だったのですね。
海について会場を設営し、焼肉をしている時のことでした。ふとした話のはずみから「後輩に車を出させること」がテーマになって、僕と某先輩が議論・・・というか会話になったのですね。
そこで僕はこう言いました。「ノンアルで後輩に車を出させるのは申し訳ないから、僕はそんなことをしようと思いません」こんな感じだったと思います。
それに対して先輩はこう言いました、「何い、お前はこの行事を止めようとしているのか!後輩が先輩のために尽くすのは当然だ、ノンアルで車を出すことなど当然なのだ。何故ならば俺たちも先輩にそのようにされてきたから伝統なのだ」と。
もうこいつは頭が筋肉でできていて手遅れなんだな、と直感的に感じました。その言葉を聞いただけで「あー僕はこの世界になじまない。理屈では理解することは不可能だ」と察しました。
体育会系の世界では先輩が後輩に理不尽な要求をすることは伝統であり、普通のことなのですか?
件のセリフのように考えている体育会系の人たちが、少なからず存在することが予想できます。しかし、どう考えても納得できない。これについて正しいという要素を見いだせないのです。
「私は先輩にこのようにされてきた、だから私も後輩にこのようにする、これは伝統である」という理屈に何の疑問も持たずに体育会系の世界で生きてきた人はいますか?ちょっとそれについて納得のいく説明をしてほしい。これって、虐待の連鎖と何か違うところがあるのですか?
なんというか信じられないのです、だから恐ろしい。理解ができないものほど、得体が知れないものほど恐怖を感じます。姿かたちなどは二の次で、中身がわからぬものほど僕にとっては厄介です。内実を理屈で理解できないものほど忌避間を強く抱きます。
僕と直接的に関わる部分ではないにしても、同じ会社にこのような脳みそ筋に君がたくさんいるので、油断はできません。だから距離を意図的に置くことでこのマッスル電波チームから身を守っている。
だけどこの理屈にどこか納得しなければいけない要素があるのだとしたら、僕が考えを改めることも必要なのかもしれない。それは自分だけでは気づけぬものかもしれない...。そう考えて今回は読者に投げかけてみたいのです。
伺います。
体育会系の世界では先輩が後輩に理不尽な要求をすることは伝統であり、普通のことなのですか?
理不尽な苦労の再生産を強要することは、間違っています。
「自分がやられたから、相手にもやる」というのは、あまりにも幼稚な発想です。過去に囚われた考えです。
「過去に囚われる」体育会系は保守的なのかもしれませんね。昔の伝統を壊さないために、理屈では説明のつかないことを人に強要する。
この巨悪から逃れるにはどうしたらいいか。明確な回答は提示できませんが、少なくとも現時点で言えるのは「距離を取りましょう」ってことですね。
嫌われることを恐れないで、プライベートの付き合いを避けましょう。