羆の人生記

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他人に無関心で興味がない、ということ

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他人に興味がない。みなさんはどう?他人に興味が湧く?僕はいつのころからかな、他人に興味が持てないでずーっと生きてきた。そんで2019年を迎え(唐突ですまんね)、ちょっと心変わりというか、今まで生きてきてこんなこと考えもしなかった、ってなことを考えちゃったわけさ。そんなお話を。

他人なんてどうでもいい

とまではいかないけれど、8割はこういう思考。自分と他人には、大きな壁、あるいは深い溝がある。基本的に、どうでもいい。誰かが何かを好きだろうが、嫌いだろうが、どんな仕事をしてようが、今日の朝飯は何を食べたのか、好きな色は、食い物は、アレルギーはあるのか、運動は好きか、読書はするのか、するとすればどんな本を読むのか、性的に好きなタイプは、などなど、どうでもよし。

 

どうして他人と一線を引くのか

自分が自分であるために。誰かに浸食されたくない。人に自分の人生の舵を渡したくない。自分らしく生きたい。だから、だれかの影響を受けるというのは、まっぴらごめんだ。それに、ひとりが好きだ。だから、誰かに興味を示して、それで仲が深くなって、その結果依存して、一緒にいなければいけない状況になる、これもいやだ。

幼いころから自分を出して、いやこれは綺麗な言い方で、「俺のことをわかってくれ」と言わんばかりに自分語りをしたり、時には暴力に訴えて人に思想を押し付けることを繰り返した。その結果はもちろん、忌避や拒絶。嫌な顔をいっぱい見た。それで、「ああ、自分なんて出せば人の嫌な顔を見ることになるんだな」と悟った。だから自分を出すことも、あまりしなくなった。その結果、他人と一線を引くようになったと。そういう感じだ。

 

社会に出て加速した

子供の頃だって、人に合わせるのは得意じゃなかった。それが大人になって、そういうのが柔和になって人が好きになるか、というとそんなことはない。そういう性格の硬直化が進み、ますます人に合わせるのが嫌になった。

けれど、飯を食わないといけない。それには、仕事をしなきゃ。仕事をする上では、人に合わせていかなければいけない。少なくとも就業時間は、自分を殺さなければいけない。だから割り切ることにした。人に合わせる、とことん合わせる。

それの反動が来たんだね、プライベートで誰かに合わせるなんて、まっぴら御免。どんな罰ゲームだそれは、普段どれだけ人に合わせて仕事してると思っているんだ。それを仕事以外で?何かの冗談だろ。勝手にやってろよ、やっていたい奴らでやっててください。どうか、そっとしておいて。

 

自己中心的

つまりこれって、凄く自己中心的な考え方だと思う。自分の認めたくないものは、シャットアウト。興味がある、あるいは益があると判断したものだけは取り入れる。あとは、「変なものを押し付けるな」と固辞。いやはや、とんでもない我がままな性格だよ。

人間性としては、見てらんない、とてもじゃないけど醸成された豊かで穏やかな人間性ではない、とても角張ってて、とっつきにくくて、できれば関わりたくないようなパーソナリティだ。もし、自分がもう一人いたとしたら、僕はできるだけその人には近寄らないかもしれない。だって、凄く硬い。曲がらない鋼。溶けない氷。話してたら、きっと疲れるよ。それに、こちらのこと、わかってくれようとは、しないと思う。認めたいものだけを認めて、認めたくないものには無関心を貫くのだから。黒い氷だ。

 

自分と他人はわかりあえない

なまじっか、中途半端に書籍を読みかじって、こういう考えが蓄積されていったんだろう。自分と他人はわかりあえない。だって、DNAも違えば育った環境も違う。それなのに、相手の気持ちなんて、わかりっこない。これは至極、論理的な発想。

・・・と、自分に言い聞かせる。そうすることで、自分を守る。相手に何を言われようとも、どんな嫌な言葉を浴びせかけられようとも、「他人なんだから、仕方ないよね」で、無理やり納得させる。

 

傷つきやすい心を守る本能

多分、生来的なもので、人の顔色が気になったり、感情に敏感だったり。そういうところが自分にはあって。さらに、それに手伝うは少年の頃から体型で虐められてきた経験。これが、自己防衛本能をさらに高めていったのだと思う。虐める人を見てきたから。言葉・肉体両方の暴力を受けてきたから、人の醜悪さや残酷さをしっている。だからね、心から気を許すことができない、他人になんて、自分の心はさらけ出せない。もし、さらけ出したら、その柔肌に心無い言葉を突き立てられて、深く傷つくだけだから。

 

ま、そんなこんなで他人には無関心という名の万里の長城を築き上げ、興味がないというマリアナ海溝を掘りこんだ、それが現在のパーソナリティ。うわ、なんてつまらねえ人間なんだろう。唖然とする。

 

なんでこんなことを考えたか

色んな所で孤独死の話を見聞きする。そこから今回の話に至ったとか、そういうのではない。別に、一人で死ぬことを特段怖いとは思わないし、一人で死ぬ尊厳は認められる権利とすら思っている。もちろん、死ぬのは怖いよ。けれど、死ぬのにひとりも賑やかもない。同じ死で変わらん。でも、孤独死の話も、記事を書くひとつのきっかけくらいにはなった。「ひとりで生きて何が悪い」と、「他者に興味を示さない」は別次元の問題なんだろうなって考えて。それが主な記事を書く動機になった。これ、一緒にしていた節がある、自分の中で。別にひとりで暮らしたり、ひとりが好きな思考は否定されるものじゃないし、認められて然るべきものかと。

このね、馬鹿みたいに凝り固まった自己中心的で他者を認めない意固地な性格・人間性を何とかしたいなって思い立ったわけ。もうね、あまりにもツマランし、人間としても深みが出ない。浅すぎる。結局、他者に興味を示さないとか、無関心を貫くスタイルというのは、自分を曲げるつもりもなければ、相手に共感する気もないという自己中心的な考え方で、伸びしろが無いんだよ。こういうのを変えたいの。

他人に興味を示す心がけ

ヘンテコな努力で無理してすぐにバテるのは愚かすぎるから、できることからちょっとずつ自分を変えていこうというのが、今の計画。例えば今日、「他人に興味を持とう」と心掛けて1日を生きてみたところ、スーパーの買い物ですら、レジのお兄さんだとかすれ違う人に対しても「この人はどんなことを考えているのか?」だとか「この仕事を選んだ理由は何?」だとか、他愛もないことであるけれど、少し興味が湧いてくる。今まではまるでNPCのように、プログラムされたもののように他人を見てきたのが、「興味を持とう」と思うだけでも、無意識にそういう疑問が湧くものなんだなって、凄く不思議に感じた。人間の脳って、どうなってんのよって感じで。

そのあとは知り合いと過ごしたのだけど、その人に対して、最近始めた仕事のことだとか、今トライしている資格のことだとか、ハマっているソシャゲの話題だとか、そこらへんで質問をどんどんするようになった。先ほどの心がけが手伝ったのだろうか、相手に相手の最近の出来事や趣味趣向のことを聞こうという気持ちになったのである。すげー、どうした俺。こんなこともできるのか。しかも、聞いたことはいまだに頭の中に残っている。そぞろで興味もないのに、適当に間を繋ぐだけの意味でした質問とは段違いだ。記憶に残っている・・・!

 

締め

はい!

というわけで乱文にて思考を文章化してみたわけですが、うわー、見ずらい(笑)

ダラダラと書いたけれど、ま、簡単に言えば「他人に興味がなさすぎな自分は、自分を守るためにさもそれが自然な思考だと思い込んでいたけれど、このままではつまらん人間で人生終わるよ、そうじゃなくて、他人に関心を持ち興味を示すという心がけで徐々にそういった考えを変えていき、人間として豊かになろうじゃないか。暖かい人間性の陶冶をしていこうじゃないか」ということです。全然簡単じゃねえな!

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人に対して斜に構えるのは、そろそろ終わりにしようと思う。この、防御力ゼロのトラウマだらけのむき出しの心をね、どこまで出せるか。ちょっと自信はないけれど。あまりにも人に対して不信感を募らせ過ぎた感ある。ひとりが好きなのは変わらないけれど、ひとりも好きで、他人にも興味を示せる。それくらいの人間性は、30代のうちには獲得したいぜ。

今年は、いろんな人に連絡して、遊びや飲みに誘って、無理のない範囲で生活していきます。ここまで読んでくれた人、いるとしたらすげえな(笑)ありがとうございました。