羆の人生記

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「隣の芝生は青く見える」自分の中の幸福探しは孤独な旅

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人の物って、良く見える。自分の物と比較して(持たないのなら「持たない物」と比較して)良く見えがち。隣の芝生は青く見える、って誰しもがご存知のあの言葉、わかる。英語の英語のThe grass is always greener on the other side of the fence.(フェンスの向こう側の芝はいつもうちのより青々している)を訳した諺らしい。

隣の芝生は青く見える、もありますが、「自分の芝は隣より青い」ってのもありますね。これは比較によって生じる優越感。幸福に関しても、何かと比較して実感することが多かろうかと存じます。

人と比べて(比べられて)このかた生きてきた

生まれてからこのかた、競争ばっかりやってきましたよ。兄弟姉妹とは親の愛を獲得するために競争し、園児たちとは好きな玩具や異性を巡って競争し、学童期では成績がつまびらかにされて競争し、高校や就職で競争し。

比較しなければ社会的なアドバンテージは(精神的にも物質的にも)得られない。そうしなければ、落伍者としてアウトロードを走る人生になる。こういう意識を擦りこまれ続けて生きてきた。

いまだ記憶に鮮明ですが、祖母に「あんたは従弟の〇〇と比較して、ほんとうに駄目な子だね」と言われた悲しみ。これはたぶん、未だに心のどこかに消えない傷となって残っています。人一倍競争心た負けん気が強い気質は、この一件で後天的な要素になったのではないでしょうか。良いのか、悪いのか。

さて話は戻りますが、この社会に競争は必要だと思っています。すべての競争を無くして、発展はありえない。みな、競いながら切磋琢磨して成長していく。時には蹴落とす場合もありますが、それはコインの裏表みたいなもので必然的に生じるのでしょう。

それに、生物として競争は本能的なものです。先述の兄弟姉妹との親の愛情獲得競争なんぞが良い例でしょう。よくよく考えて起こした行動というよりは、動物的な本能に基づいて起こした行動、闘争である。

だもんですから、我々は常に競争にさらされていて、それは半ば不可避です。でも、べつに競争に負けたからといって必ず不幸せになる、とも限らないんですけどね。

 

比べて辛くなってきた20代から30代にかけて

ずっと競争してきたんですけどね。時には勝ち、時には負け。

20代から30代に差し掛かる頃ですかねー、こういう生き方がしんどくなってきた。「あいつより上だから安心」「こいつは俺の先を行って悔しい」こういう感情が、フラストレーションになって心の負債と化す。

トータルスコアで人生の幸福感が下がっていく、競争によって。それを確信したのが30代も半ば。ああ、間違いない。比べ続けて、戦い続けても自分は幸せになれない。闇雲に精神に波風を立てて、穏やかな生活を脅かしてしまう。

それに、限界を感じました。競争する、ということは求めることです。求めた結果、それが叶えば何かを得られます。しかし、得たものを手にするということはそれを失うことにもつながります。永遠不変の自分の幸せの構成要件にはなりえない。欲望の連鎖です。競争の連鎖。連鎖ということは死ぬまで続くってことです。どこかで諦めなければ、終わらない。ゴールのないマラソンみたいなもの。薄々、こう感じてきたのもありますね。

そして、競争によって生じる陰です。光があれば影が生じる。表彰台に上る人がいれば、その足下には何倍何十倍という敗者の人だかりができている。これを好きで生み出すのは、果たして本意なのか。綺麗ごとかもしれませんが、不本意です。闘争で何かを勝ち得る喜びと、ボロ雑巾になった敗者の打ちひしがれる顔を比較して、後者を生み出さないという方針を決めた。社会で生きていく以上は自然に生み出されるものなのかもしれませんが、意図的にそれを加速させる必要もあるまい、と。

 

自分の中の幸福探し

ノウハウがゼロなので目下、苦戦中です。

今までは誰かと比較して優れているか否かで幸せのスコアを出してきました。しかし、もう物差しがないんです。どうやって幸せを感じて良いのか、わからない。道具がない。

誰かが「あなたは十分に幸せよ」と言ってくれたとしても、その場の溜飲がさがる程度がせいぜい。その人が常に傍らにいてなんなら頭の中に常駐してもらって「あなたは十分に幸せよ」と言い続けてくれるかどうか。そんなことはないですよね。

幸運にもそういうパートナーに巡り合えて、日常生活で幸せを鼓舞し続けてくれる場合もあります。これは本当にラッキーですし、有難いことでしょう。でも、いずれは別れの時が来ます。そうなると、またゼロからのスタートです。

刹那的に、寂しさを紛らわすために誰でも良いからとばかりに一緒にいる人を篭絡し続ける人生もあるかもしれません。けど、この道が生み出すのはさらなら深い空虚ではないかと思うのです。

とどのつまり、自分の中の幸福探しを成すことが人生における到達点のひとつではないかと。

けど、ちょっとやってみてください。自分の中の幸福探しを。凄く、難しくないですか?ほかのどの事象に尺度を求めても、駄目なんです。絶対的に、自分の中にある幸福を認める必要がある。一人称で人生のビューを有している限り、2カメラで自分の姿を見て「あ、幸福じゃん」って、できないんですよ。いやできる人はいるかも。だとしたらすげえ。

今まで、幸せを他者との比較の中で実感してきたこと。これがいかに容易だったかというのは、自分の中の幸福探しをしてみて、始めて理解できるのかもしれません。このように、文字にしてみるとさらなる確信に至ります。

 

孤独な旅

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自分の中の幸福探しは、孤独な旅です。

誰にも太鼓判は押してもらえないし、丁度いい定規はダイソーにもホムセンにも売ってない。非常に困難を極める。

簡単な作業じゃないですし、なにより寂しいですよ。自分で自分のことを鼓舞するしかないです。「頑張れ、お前の中に幸福はある。今はまだ見えてないだけ。諦めるな、人と比べるな、安易な道を選択してはいけない」って、セルフサービスでメンタルを上げていくしかないんです。

余りにも険しい道だから、誰かに寄りかかって生きていこうって決めたとする。そんで、依存する。でも、何かのはずみで寄りかかっていたものが外れたとしたら、預けていた体重の分がバランスを崩して倒れる。倒れた場所に緩衝材を置いてなければ、コンクリートに全身を強く打ち付けて大けがをするか、奈落の底へ真っ逆さま。だから、どこかに体重を預けることはしたくないんです。

望みのない、あまりにも悲観的な発想ですが、そういう経験をし過ぎたのでしょうね。希望は、そこには見いだせなくなった。盲目的に、誰かを信じて体重を預ける道を歩むことができなくなった。トラウマなのでしょう。

こんなに苦しいのなら悲しいのなら・・・・・・・・・・・ 愛などいらぬ!!

愛などいらぬ! (あいなどいらぬ)とは【ピクシブ百科事典】

聖帝サウザーみたいなもんですかね(大げさ)。

 

ま、っつうわけで、誰かと過ごさずに基本一人で過ごしていくにあたって「幸せ」を比較せずに認識するというのは、とても孤独で途方もない旅なんだよ、ということをお伝えしておきます。万人に推奨できる生き方じゃねぇなこれ、ってのが正直な感想。だって、日常的にほどほどの寂寞感に慢性的に苛まれ続けるんだよ、どんなマゾプレーなの?誰かといて幸せを感じることのできる、そこのあなた。超ラッキーですよ。おめでとうございます!

でも、だから誰かと過ごそうか、ともならないんですよね。誰かと居ると常に気を遣ってしまい、心が擦り減ってしまう。そういう人、いませんか?僕はひとりが好きなんです。というより、たぶん、もともと生まれつきの気質がそうなんだろう。いらん気遣いまでして、勝手に消耗するタイプ。

うーん、結局自分はひとりで過ごす方が幸福のトータルスコアは大きくなるんだろうな、と。そう認識したのは良いんですけど、次に現れたのが比較しない幸福感の得方。まーまー次から次へと課題が現れることで、ほんと人生って面白いなと感じます。

 

自分の中の幸福探し。この道は常に寂寞と孤独が付きまとうのかもしれません。けど、そういうもんなのかもしれないね。ま、しゃあない。ずっと寂しみを感じながら、それでも進んでやる!