羆の人生記

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裏表の激しい社会に生きて

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僕の周りの人間は裏表が激しい。職場の人間は当然、兄弟や両親に至ってもそうである。直接会うと笑顔を作り、当たり障りのないことを話してその場をつくろうが、いないところでは陰口に近い強烈なことを平気で言い放ったりする。これが日本人の気質なのかどうかはわからないが、断定するには主語が大きいので控えるが。

 

とにもかくにも裏表の激しい社会の中で生活していると、本音というのは話せなくなるもんで。現在の自分がまさにそんな感じ。裏で何を言われるか分かったものではないし、腹を見せるのが怖すぎる。こんな裏表の激しい人たちに自分をさらけ出すことなどどだい不可能である。

 

本音が出るときは、まぁ腹を割って話そうか?と覚悟を決めたときかあるいは喧嘩のときくらいであろうか。それでも、前者の場合はまだ本音を話していない部分が多く、真に腹を割れるのだとすれば自分が余命いくばくかであるとか、もう社会的な生命が断たれて怖いものがなくなったとか、社会性を失いつつある状況でしか話せないのであろう。後者なんて本音とともに罵詈雑言が飛び出すことが常だから、関係は激しく悪化して、それ以後の人生は以前に比較して喧嘩が少なくなったりする。

 

悲しい思いをするのは、陰で自分のことを言っているシーンを直接自分で見てしまうかまたは人づてに聞くことだ。「ああ、普段はあんなに笑顔で接していたのにも関わらず、裏ではこんなことを言ってんだね」となる。大変、ショックである。そうなれば、もうその人のことは心の底から信用できなくなるし、表面的な付き合いで終わってしまうし、リスペクトなんてできない。

 

だから、僕は、どんなに口が悪くても空気が読めなくても本音を言う裏表のない人間が好きである。そういうやつとは、真っ向から意見をぶつけ合う自信がある。得てして鼻つまみ者になりやすいが、それは言うことを聞かせられないことに不満を覚える上司や上層部だけ。立場が近い存在でなおかつ気が合えばこれほど貴重な存在もいない、そんな人間になりうる。

 

それにしても自分は裏表はどうなのか、というと例にもれず裏表の激しい人間だ。他人に見せるのはどちらかというと表の部分。裏のドロリとした部分はこういうブログであるとか、一番信頼している人間にだけ見せることが出来る。いや訂正、もはや裏の部分を見せられるのはブログだけだ。他人で腹を完全に見せられる人はいない。だって、親ですら裏表を見てしまうのだから。

 

そんなこんなで今日も裏表の激しい職場に赴くわけだが、もう自分も他人も含めて身の回りの人間全部が表面的な繕いで形成された裏表の激しい人間たちで当たり前だと割りきるしかないだろう。こうでも考えなければ、疑心暗鬼になってだれともまともなコミュニケーションをとることができなくなるから。

 

あるとしても度合いの問題だ。ほとんど信頼できるか、ほとんど信頼できないか、あるいは半々なのか。それによって、自分の本音をどれだけ見せていいかを見定めなければならない。でなければ、あっという間に村八分になってしまう、そんな狭量な精神構造が社会の通年になってしまうのだから。ここらへんのボーダーを読むのが苦手な人にはめっぽう生きにくい社会なのだろうなと思う。察してあまりある。