管理人は十数年サラリーマンやってるんですが、職場の人間関係において不幸にも長期休暇に突入したりドロップアウトしていく人を両手の指で数えきれないくらいに見てきました。
かたやそれ以上の数の、それらの人たちよりももっと過酷な人間関係環境下におかれながらも正気を保ち、いやむしろ健やかに社会生活を送っている謎の超人たちも大勢知っているのです。
両者を俯瞰して、どのような違いがあるのかを考察しました。
病む人の特徴
ネガティブで過去への執着が凄い
「あの時、怒られた自分はどうして駄目なんだ」的発想を自然としてしまう。周りもつられて暗くなってしまうタイプですね。
後ろ向きな発言する人すべてが病むわけじゃなくて、普段はネガティブなことを述べていても潰れない人もいます。心の中で「本当に」後ろを向いていないだけなのでしょうね、口から発する言葉は世を忍ぶ仮の姿で、内心ほくそえんでいるのかもしれない。もしくは休日にとっておきのストレス解消法があるとか。こういう人はとりあえず置いときましょ。
「あの時、あの時、あの時・・・」に縛られ続ける人を見ると憐憫の情が沸きます。もったいない、これから起きるあらゆることに「あの時」という調味料を使うことで、全ての事柄が「あの時風味」になってしまい、新しい発見も喜びも台無しです。
未来のことにも不安が尽きない
例えば、誰もが知る、あくの強い噂の人などと職場が一緒になる予定となった。これだけで夜も眠れぬ状態となる。まだ起きない事象に心を揺り動かされるわけです。別に噂のその人はペリー提督でもなければ黒船に乗っているわけじゃないんだから、そんなにビビんなよ。
人事異動で「嫌な人・怖い人」と職場が一緒になる人へ - ポジ熊の人生記
って話をこの記事でしたのですけど、病む人の特徴として「未来のことで気を揉む」というものがあります。後輩に「まだ起きないことに不安になっても損しかしないよ」と伝えるのですが、いまいち理解してもらえません。説明の仕方が良くないのかも、もっと身近な例で示さないと伝わらないのかもしれない。
「仕方ない」という発想ができない
嫌なことがあった時に「なぜ」「どうして」「どうすれば」という猜疑心から「冗談じゃない」「ふざけるな」怒りへと移行する、ネガティブ様式美です。ほんと、これは良くあることですよ。諦めちゃえば楽なのに。僕なんてすぐに「あ、そ、仕方ないね」って手放しちゃいますよ、嫌なことから。誰かに何かを指摘されても、次に同じことやらなきゃいいやって割り切っちゃう。それ以上悩む必要もなければ執着する必要もなし。怒られたら怒られたことをありのままに受け止めて、次の対策を講じれば良い。
病む人は戦います。戦うのは結構なのですけど、勝算なき戦いをするんですよ、そして体力が0になって朽ちるのです。勝てない戦いはするもんじゃない。そもそも、最初から戦わなければ、勝負にはならないのです。「無敵」というのは戦いを挑むにあらず、最初から戦わなければ敵を作らぬということからすなわち「無敵」なのであります。
総評
後ろ向きに歩くとか器用だな、マイケルジャクソンかよ!
ムーンウォークのごとく華麗に後ろ向きに勧めればパフォーマーとしての地位も確立できるのでしょうが、呪詛を放ちながら後ろ向きに歩かれると、心配になりますね。もっと前向け、太陽の方に歩いてれば影は見えないっていうじゃない。
病まない人の特徴
恵まれた環境にあれば、心の強弱に関わらず病まないのでしょうけどね。ここで述べるのは苛烈な人間関係下にあって正気を保っている人間の特徴です。
背伸びしないポジティブ
え、そこ前向きになれんの!?
ってくらい明るい人。うんこ踏んでも「運がついた」って素で喜べる系の人ですね。あるいは有名なコピペじゃないですけど「病の娘を助けるためにお金を恵んでくれ」というみすぼらしい人間にお金を無償で渡し、そのあとに真相を知る人から「あれは嘘だぜ」って知らされて「ああ良かった、病の女性はいなかったんだ」と感動できるような。これはちょっとネジが数本外れた聖人ですけど、まぁこんな具合の人!
病まない人はポジティブですよ、しかも背伸びしない。よく、無理やりポジティブになろうとして半狂乱なってる人もいますけど、こういうのは長期的な戦略をとれない状況に陥るんです。どうなるかというと疲れてくるんですよ。僕、十数年前に職場の研修で地方にいったんですけど、そこで「無理やりポジティブ」を実践したことがあるんです。数か月、それ頑張りましたけど結果的に周りに迷惑かけて嫌われました。随所で粗が出るんですね、自分の能力を超えたポジティブしちゃうと。だから駄目ですよ、背伸びは駄目。
宗教かじってるっぽい
もしくは本当の宗教家か。
内面世界に造詣が深いというか・・・マジョリティのお手軽な娯楽では満足しない、自然に親しみながら文学する晴耕雨読なタイプが多いですね。表情もどこか穏やか、だけど取り繕ったものじゃなくて、そこには人生の苦労や挫折が、諦念とともに滲み出ている。何か秘密があるのではなかろうか、嫌味なミステリアスのない、つかみどころがいまいちない人たち。こういう人たちは病まない。
・・・いやむしろすでに病んでる?って言ったら語弊ありますね。彼らのことを狂人と評する、または教祖と呼ぶ人も少なからずいます。しかし、そういうことを平気で口にしてしまう人というのは哲学の「て」も語れぬようなマジョリティでもあるわけで、やはり教祖たちは人生を幸せに生きるための何らかの方法を、強烈な人生経験から会得したのかもしれませんね。
人を病に至らしめる人
暴君のような人、自分のポリシーを貫くのを通り越してそれを押し付け他人の心まで貫いちゃう人。こういう人は病みません。むしろ誰かを病ませます。多くの「弱い」人たちはこういう人種と仕事をして、口唇にポリープ作ったり胃をやられたり蕁麻疹を作ったり、挙句の果てには心療内科に通い始めるのです。さもありなん。ここのサポートは組織がしっかりと対策を講じるべきですね。
こういう人は良くも悪くも絶対的なんです。自分の信念を侵食されないから、壊れようがない。鋼のメンタルを持っています、朽ちぬ剃刀とも。
心が壊れる、病んでしまう人というのは優しいんです。他人の一挙手一投足に心悩ませ、右往左往し、自己点検し、最後には「自分が悪いんだ、どうせ俺なんか」へ帰結してしまう。
総評
病まない人は、一見するとネジ外れてる。でも、ネジ外さないと病みからは逃れられないのかもしれない!?
レジリエンスは生来的なものか
ネガティブな人に救いがなさすぎる!ひどい!
「前向きになれる」コンテンツは巷に溢れてるし、そんなもので前向きになれるなら苦労はしないのよね。
以下にさらなる持論を記載するので見ておくれ。
さて、「病む人」「病まない人」の特徴を挙げてみたわけですが、これをもって「病んでる奴、何やってんの、自己責任だ滅せよ!」と述べるにはあまりにも乱暴だと思うんです。というのも、こういう対人関係へのストレスについてレジリエンスというのは生来的なものなの?どうなの?という疑問が浮かぶから。
心理学におけるレジリエンス(resilience)とは、社会的ディスアドバンテージや、己に不利な状況において、そういった状況に自身のライフタスクを適応させる個人の能力と定義される[1] 。それら不利な状況やストレスとは、家族、人間関係、健康問題、職場や金銭的な心配事、その他より起こり得る[2] 。
「脆弱性 (vulnerability) 」の反対の概念であり、自発的治癒力の意味である。「精神的回復力」「抵抗力」「復元力」「耐久力」などとも訳されるが、訳語を用いずそのままレジリエンス、またはレジリアンスと表記して用いることが多い。
精神的回復力、欲しいですよね。「んなもん、いらない!」と突っぱねる人はまずいないでしょう、この力、欲しすぎる。ややこしい、しがらみだらけの俗間を、特にサラリーマンなんてやってる人にとってはステータス全振りしてもし足りないくらいの神パラメータじゃないですか。だって、力や知識などはトレーニングで割合簡単に上げられるけど、なんなのこの「レジリエンス」って。どこのお店で売ってるんですかー!?
話は管理人の両親に移ります。この人たちはめっちゃ強かった。特に母が強い。自分でメンタル弱いとか言っといて絶対に折れない、理路整然として毅然、人の生きる道しるべを己の生き様で見せつけるようで豪気、三国志の武将にこんなのいるわそういや的な強烈なキャラなんですね。そして父ですけども型にハマらぬマイペースで優しい、無口、凝り性でスローペース、しかし常識人でストレスに強い。
こんなサラブレッドのあいの子な管理人ですから自然とレジリエンスは身に付いたわけです。コミュニケーションスキルは群を抜き、どんな強烈なストレス下においても谷底へ転がった後に助走付けて大気圏外まで飛びかねないくらいの勢いで上昇していくパワー。もちろん、先ほど述べた両親ですから精神的経済的バックボーンとしてもこれほど力強いものはない。世界一のラッキーボーイだと思うんです、自分は。
・・・じゃ、ストレスに弱い直系だったらどうすんの?
問題はそこなんですよ。この「レジリエンス」を生来的に獲得できなかった人はすべからく淘汰されるのが理であると認めて良いものなのか?
個人的にはそうは思わないんです。自慢気になってしまいましたが、先ほどは自分のレジリエンスの高さを述懐させてもらいました。こうして己の強みを把握するのも、自らを知るという意味ではとても重要なことです。大事なのはここから。
「うちは親もメンタル弱いし頼りない、生まれも育ちも劣悪な環境でストレスに弱いんですが・・・」と悩む人へ、的を外れない程度のソリューションを提示するのが、もともと強さを持っている人の矜持としてあるべきだと考えます。
「お前らが心折れるのは単なる怠惰である」と一面的に切り取って蹴り落とす考えは悪です。これは、人としてやってはいけない。そうじゃなくて、自分が生来的にストレスに強いのであれば、周りにいる弱い人に手を差し伸べて病んでしまうコースに歯止めをかけたり助け舟を出すなどやれることはいっぱいあるでしょ?ってことを言いたいんですよ。強い者は奢らない、ただ燦然とそこに在って無言で手を差し伸べる。そういうことですよ。強い人には皆、こういう存在であってほしい。先ほど述べた暴君も、強いんです。強いんですけど、弱い。実に惜しいんですね、人として弱い。ここでさらなる成長を遂げるのであれば、優しくなって誰かを助けることのできる強さを持つことでしょうね。
しかし、生来的に弱き人へのソリューション提示、これがまた難しい・・・
というのも、例えば人生における強烈な苦労や挫折は、その人を飛躍的に成長させるといいますよね。松岡修造氏もおっしゃいました、ピンチは最大のチャンス、と。ですが、これは普遍的に通用する黄金律にはなりえない。 なぜならば、そういう強烈体験によって心が崩壊し、場合によっては自死を選択する者もいるからです。全員が全員、自分で放ったかめはめ波を自ら浴びて、そのあとに仙豆を食べて超回復できるわけじゃないんです。浴びたあとに仙豆に辿り着けず息絶える人もいる。こういうことも考えねばならない。
僕は、挫折は必要だと思ってました。どん底に落ちた時こそ、人生の理が見える。そういうふうに、最近まで真面目に考えていたんですよ。これに疑念はないです。ただ、万人がそれをできるわけじゃない、と。駄目な人は駄目になる。これも、きっちりとわかっておくべきです。
じゃあどうすればいいのよ?って聞かれたら。うーん、そうですね。まず自分のレジリエンスはどうなのか、知りましょう。強いの?弱いの?それとも普通?これを把握する。強い人は、谷底へ紐なしバンジーしても死んで果実が咲くものかの精神で這い上がり、むしろ強くなって周囲を驚かすことができるでしょう。弱い人は、割れ物みたいなもんだから、自分一人で強がらずに周囲に助力を請いながら上手に生きる必要があるでしょう。「私、まじで弱い」アピールも時には必要かもしれない。タブーは背伸びです。普通の人はマジョリティがやっていることを真似て流れに乗るもよし、流れから外れるにしても遊泳区域内で遊んでれば溺死することもないでしょう。
お粗末な解決法ですけど、自分に合った生き方で進むしかないってことですね。みんながみんな、強いわけじゃないんだ。強い人は「強くなれ」なんて無茶言わないでさ、優しくなろうな。
強いのに強さを自覚してない人には、この2つの記事をおすすめするよ。アドラーはいちど頭に入れたら勘違いして、1年間くらいで醸成されてやっと自分のものになるから。それでも一部ですけどね。深い。
レジリエンスなんて、簡単に鍛えられれば苦労はしないというね。ただ、言葉の概念を知って、理解を深めることで見えてくるものもある...かもしれない。管理人が自己啓発書に端を発し、心理学から宗教までいろんな本を読み漁っているうちに人生が「オカシク」なったように。おかしい、というのは面白おかしく、ってこと!