羆の人生記

ひとり暮らしに役立つ情報を更新します。

『夜と霧』感想 強制収容所集団心理分析と「生きる」ことの考察

スポンサーリンク 

書籍『夜と霧』新版を読みました。

ヴィクトール・E・フランクルが記したものを池田佳代子さんが訳したものです。

内容はアウシュビッツ強制収容所の体験を通じた心理学者の分析結果。

ここにその一部を紹介し、所感を述べて終わります。

フランクル略歴

  • 1905年ウィーン生まれ
  • ウィーン大学在学中にアドラー、フロイトに師事し精神医学を学ぶ
  • 精神科医としても有名だったが、脳外科医としての腕前も一級
  • 1941年12月に結婚、9か月後に家族ともども強制収容所テレージエンシュタットに収容
  • 父はここで死亡、妻と母は別の収容所に移されて死亡
  • 1944年10月、アウシュビッツに送られる
  • 3日後にシュルクハイムに移送
  • 1945年4月にアメリカ軍により解放
  • 1946年からウィーンの神経科医に勤務(1971年まで)
  • 1947年に再婚
  • 1997年9月2日、92歳で没する

 

見る限り壮絶な人生を歩んでおり、特に自分以外の家族が全滅しているあたりは想像を絶する悲劇に見受けられます。

 

ですが、彼は収容所内でいち心理学者として俯瞰的に集団の心理を見つめ、それをまとめた『夜と霧』で歴史に残る重要な記録を世に広めることとなります。 

 

第一段階「これまでの人生をなかったことにした」

収容所に移送されてからみぐるみを剥がされ、自分の持っていた大事なものまで容赦なくすべて没収される。この時点でフランクルは心理的第一段階のクライマックスに達したといいます。それは

 

「これまでの人生をなかったことにした」

 

自分にはもう、地位も名誉も財産も、衣服の一枚すらない。権利などあるはずがない。本当の意味で裸一貫となってしまう。この時に起こる感情は、過去の人生が全て意味をなさなくなる。つまり、捨てざるを得ない、ということです。

 

食べ物や衣服が当たり前に豊かにある我々には、考えも及ばない感情でしょうね。

ここまで人間が追いつめられると、今までの全てのリセットをかけざるをえなくなる。これからの人生を考えるにあたり、過去の遺産や手持ちのストックが0の状態で頑張らねばならないということです。

 

第二段階「アパシー」

アパシーとは感情の消滅です。

 

被収容者は収容初日は激しい情動に駆られました。

 

まず第一にそれを惹起させたのは、残してきた家族のこと。当然ですよね、愛する妻や子供、病苦の母親のことが心配にならない人は、いないでしょう。また、ほかの収容所へ移送されて身を案じる場合も同様に心苦しいかったに違いありません。

 

第二に、醜悪な環境への憎悪です。カカシのほうがまだマシなお仕着せを着せられ、劣悪な衛生環境下に詰め込まれて家畜以下の扱いを受けること。自尊心もろもろが激しく傷つき、苛んだに違いないでしょう。

 

ですが、このような感情を殺す。内面をジワジワと消しにかかったのです。あきらめの感情に近いでしょうね。収容所生活で見るあらゆる凄惨な暴力や骸の数々が、アパシーに拍車をかけます。

 

第三段階 解放後の心理

解放されたときはにわかにそれが信じられないそうです。「え、これって夢だよな?」って考えてしまうのだそう。終わりのない悪夢の中にいたようなものだから、当然の反応ですよね。

 

胡蝶の夢ではないですが、僕らがたまに見る悪夢のほうが現実世界で、今いるこの世界は夢の中のユートピアだと考えればわかりやすいかもしれません。現実から覚めて悪夢の世界に没し、「ああ、やっぱりこの悪夢の世界が現実なんだ」これを幾重も繰り返せば、突然訪れた自由を無条件に享受することは不可能でしょう。

 

解放後の被収容者は、人間はこれでも食べれるのかというくらいの食事をするそうです。中には深夜に及ぶまで飲食を無心に続けるものもいたそうです。それだけ、究極の飢餓の中で苛まされ続けたということですね。

 

それでも自分が解放されたことが現実だと受け入れられれば、新しい人生が始まったことを痛切に感じて「リセット」され、次の人生を歩み始めることになります。

 

しかし、その前途は多難です。家に帰っても待ってくれている人はいない場合も多い。世間に不満は募るばかりです。「あれだけ理不尽な仕打ちに耐えてきたのに、この扱いは何だ!」と憤る人も珍しくはなかったそうです。また、激しい怒りが突発的に起きてしまうような心に傷を負ったものも少なからずいたそうです。

 

生きることの意味

ここでは、僕が書籍内で印象に残った部分について所感を述べます。

 

フランクルは過酷な労働環境の中で、愛する妻の顔を思い浮かべます。その途端に、彼の中に光が差し込みます。どんなに悲惨な状況下でも、愛する人のことを想うだけで、それだけで無限のパワーが沸いてくるのですね。妻が生きているか死んでいるかわからないにも関わらず、です。

これが愛の力なのでしょうか。だとしたら、誰かを想うのに見返りなどは必要ないのかもしれません。また、生きているか死んでいるかも重要ではない。自分の中にその人が大切な存在として生き続けていれば、それだけで湧き出る力に変換できるのかもしれない。

 

生き残った収容者の特徴は「目的を持っていたこと」だそうです。もし、自分が収容所から出たら、どう生きようか。僅かな望みでも自分の未来を諦めずに苦悩を受け入れた人間は、強かったといいます。逆に今を受け入れられずに過去の思い出に浸り、ついには活きることを諦めた人間もいたそうです。その人は点呼にも出ず、食事もせずにピクリとも動かなくなるそうです。本当の意味で生きることを諦めてしまったのですね。

 

被収容者の中である男が、フランクルにこう告げたそうです。「1945年の3月30日に解放される夢を見た」と。彼はそれを頼りに、今日を生き続けました。しかし戦況は望むような方向へゆかず、ついに3月30日を迎えます。彼はどうなったか。チフスに罹患して譫妄の中、3月31日に息を引き取ったそうです。人間は何かを頼りに生きている。彼にとっての頼りは「3月30日に解放されること」だったんです。

 

強制収容所の人間を奮い立たせるには、まず未来に目的を持たせなければならなかった。被収容者を対象とした心理療法や精神衛生上の治療の試みがしたがうべきは、ニーチェの的を射た格言だろう。

「なぜ生きるのかを知っている者は、どのように生きることにも耐える」

『夜の霧』新版 128ページより引用

 

フランクルは、人生とは自分が問われているのだと言います。人生に生きる意味を問うのではない、人生に問われた意味に答え続けることで前に進むことができる。

 

その時々で人生の意味など変わるのであって、一般論では語れない。ただ、自分がそこで何らかの決断をすることで人生の問いに答え、道を切り開いていくことこそが生きることである、と説きます。

 

ーー

 

強制収容所に入ったからこそ、誰しもが体験しえない「生きる」意味を見出したフランクリンの冷静かつロジカルな分析には舌を巻くばかりです。

 

過去の出来事に囚われて前に進めないあなた、是非ともこの書籍を読んでみてください。究極ともいえる壮絶な状況の中で「生きる」意味を丸裸の人間が冷静に分析したものが、どれほど正鵠を射て我々の心に突き刺さるか、ということを実感するでしょう。

 

へたな自己啓発本より、『夜と霧』を読んだ方が生きることを真剣に考えられるようになると思う!

 

 

なお、以下の記事内で「死ぬ瞬間~死とその過程について」という書籍を紹介しています。こちらも興味のある方はご覧ください。

※リンク先は該当箇所